それから、次の典薬寮への出仕を終えた蓮はお供の鋳流巳を連れて五条の邸に戻ってきた時、五条の正門をくぐるとこちらに向かって歩いてくる大きな男が見えた。
蓮はそれが誰だかすぐにわかった。
景之亮である。
景之亮も蓮に気づいて立ち止まった。
先に声をかけたのは蓮である。
「景之亮様!」
思わず景之亮の前まで走って行って言った。
「御子の病気は快復したと聞きました。よかったですね」
「ありがたいことにそうなんだ。今、実言様礼様にもこの度のご尽力のお礼をお伝えしてきたところだ」
「そうなのね。今からお帰りになるの」
蓮が訊ねると。
「ああ、そうだよ」
と、景之亮は言った後、すぐに言葉を継いだ。
「礼様から聞いたよ。あなたも心配してくれていたと」
蓮は供の鋳流巳に目で合図を送り、鋳流巳は蓮の後ろを離れて行った。
「私はただ、快復して欲しいと祈るだけでした」
蓮はそう返事をして庭の方へと足を進めた。
「いや、あなたのその気持ちが嬉しいのだ」
景之亮も体の向きを変えて蓮の後ろに続いた。
「御子はもう前と変わりなく過ごせていますか?」
「ああ、元気に外を走り回っているよ。本当に礼様がお医者様を遣わしてくださったおかげだ」
「丸が……丸殿がお母様を頼って来てくれたと聞いています」
蓮はかつて一緒に暮らした景之亮の侍女を懐かしんで呼び捨てしてしまった後、すぐに言い直した。
「丸と呼んでやっておくれ。丸もあなたのことを忘れたことはない。息子の熱が下がらず苦しそうな様子に、私に断りもせず丸は五条に走った。あなたを訪ねたらしい。丸が頼りにしているのは蓮殿なんだ」
「丸が……」
景之亮と一緒に暮らしている間、邸を切り盛りしている侍女の丸との日々を蓮は思い出した。岩城の暮らしと比べると景之亮邸の生活は苦しいものだったが、それでも無いなりに邸の者たちの衣食住を少しでもよいものにしようと二人で話して実行したことは楽しい思い出である。
「頼ってもらえるなんて嬉しいわ。………景之亮様はもっと岩城を頼っていただいていいのです。父も母も景之亮様を頼りにしていますから。そしてその献身に報いたいと思っているのです」
「嬉しい言葉だ。しかし、お世話になっているのはいつも私の方だ」
景之亮は言って目尻を下げた。
景之亮の御子の病気のことを聞いた時、母からあなたは困っている人がいればほっとけないから、こんな時は真っ先に手を上げて行くというでしょうね、と言われた。確かに景之亮の邸に行って、できることをしてあげたい気持ちはあった。しかし、これ以上景之亮に会ってはいけないと思った。それは先日、景之亮が蓮との復縁を願って父実言に取り持ってもらい、この五条で会うことがあった。蓮は伊緒理とこれからの将来を約束したから、景之亮の願いをすげなく断ったからだ。しかし、御子の病気からこうして話すことができた。
もう、火事の日の出来事以降、景之亮に近づいてはいけないと思っているのに、景之亮と話すと楽しさを感じている自分がいる。
「………蓮……」
景之亮の声音が変わった。蓮は自分の名前を呼び捨てで呼ばれて、背筋がぞくっとした。
「私は……諦めの悪い男だと知ったよ。……あなたのことを諦めようと思っても、あなたを前にするとやはり、あなたを得たいと思う。今もだ」
「景之亮様……」
蓮はなんと答えたら良いか分からず、黙っていると、後ろから声がした。
「あら、お似合いのお二人」
それで、蓮がそして景之亮も振り向いた。弟の宗清が立っていた。
「宗清!」
蓮は声を上げた。
「景之亮様、うちに来られたのですか?いらっしゃい」
「いや、先ほど実言様礼様にお会いして、これから帰るところだったのだ。そこで」
「私が典薬寮から帰って来て、ここで景之亮様とお会いしたの」
と続きを蓮が引き取った。
「こんなところで立ち話はいけません。話があるのなら中へ」
宗清は庭の中に二人を連れて行こうと先を行こうとする。
「いいえ、話は終わったわ」
蓮は言った。
「では、景之亮様、久しぶりですから私とお話ししてくれませんか?」
宗清が景之亮に向いて言った。ちらりと蓮に視線をやってから景之亮が答えた。
「………そうしたいところだが、私も邸に帰らないといけない。宗清、また時間を作って話をしよう」
「そうですか?残念です。景之亮様はお忙しいから、宮廷で会っても挨拶だけですからね」
「すまないね。今度また。必ずだ」
宗清にとって景之亮は弓の引き方、剣の振り方とさまざまな武術の基礎を教えてもらった師である。姉の夫でなくなっても、それは変わらず良き兄として慕っているのだ。
「そうですか……わかりました。次は絶対ですよ!」
宗清は言って、蓮と並んで景之亮を見送った。
景之亮の背中が見えなくなってしばらく経って、二人はくるりと邸の内側を向いて庭の中に入った。肩を並べて歩きながら、宗清は言った。
「姉様、景之亮様ともう少しお話しすればよかったのに。もう話は終わったなどと言って」
「だって、本当にお話は終わったのですもの」
「……二人とももっとお話したそうでしたよ。だから誘ったのに」
「そんなことはないわよ。私たちは景之亮様の御子の病気について話していたの。ちょうど話は終わったのよ」
「本当に?私にはそんな風には見えなかったなぁ。二人とも次の言葉を言おうかどうしようかというふうに見えましたよ。だから、私の部屋で話をしたらいいと思ったのに」
「そんなことはないわ。景之亮様も用事があったの。お忙しいのよ」
「そうかなぁ」
宗清は腕を組んで首を傾げた。
「景之亮様は姉様のことを今も思っているでしょう」
「何を言うの。私たちのことはもう過去のことよ。景之亮様もわかっておられるわ」
「うん………だけど、今、景之亮様に妻はいない。幸か不幸か景之亮様は独りだ。だから、姉様と景之亮様がよければ再び夫婦になれる。二人ともそれを分かっていて、その機会を窺っているようにも思うんだけどね」
「何を言うの?そんなことはないわよ」
「姉様、私は言いますよ。いくらでも好きな人は現れると。私は沢山の女人に会って、それぞれ心を動かされました。思い人はひとりでなければならないことはありません。あの人もこの人も良くて、私の心から離れず、忘れられないことはあるのです。私たちの心はどうなるかなんてわからないのです。自由ですからね。姉様もそれはわかっていることではないですか?」
宗清は胸を張って言う。
宗清は五条の男にしては珍しく女人との関係が派手である。父も兄も一人の女人を妻にしてすぐに自分の元に呼んで暮らしているが、宗清はそうはならないだろう、と皆が言っている。今も、複数の女人と恋仲になっており、あなたの一番は誰なのかと詰められているらしい。
「だってあの人もこの人も私を慰めてくれたり、奮い立たせてくれたりするのですよ。そんな素晴らしい女人を手離せますか?誰とは選べません」
などと言う。
全く宗清も姉に向かって恋についての一家言を言ってくれるではないか、と蓮は並んで歩く左側の宗清をちらりと見上げた。
宗清に伊緒理のことを話したことはないが、父母が伊緒理との密会を知っているのだから、兄弟たちもわかっているのだろう。それをわかった上で、宗清は蓮の今後について話をしてくれているのかもしれない。
二人の男。
大王とその民に貢献するために異国に行くのを見送った男と子供を成すためにその前から去った男。その二人が願いを叶えて、今、蓮の前にいる。
宗清が言うように、二人の男を思うことはできるだろう。でも、蓮は二人の間を行ったり来たりなんてできない。だから、どちらかを選ばなくてはいけない。より愛している人を。それは……い……。
そこで、蓮は戸惑った。誰と名前が言えない。
私はどっちと決められないのか………?
夏のよく陽の照って暑い日。五条岩城邸の正門の前に伊緒理が立った。
「ようこそ、おいでくださいました」
門の内側で忠道が迎えた。
「お出迎えいただき、ありがとうございます」
伊緒理は頭を下げた。
「こちらで少しお休みください」
控えの間に案内されて伊緒理は吹きこぼれる汗を抑えるために、胸から白布を取り出してこめかみに当てた。
「ご配慮、痛み入ります」
侍女が井戸から汲みあげたばかりと思われる冷たい水を椀に入れて持ってきた。
汗が引いて喉も潤ったところで広間に案内された。
「失礼します」
御簾の巻き上げられた入り口から、声をかけて庇の間に入ると、奥に座っている岩城実言の姿見えた。その隣には医者の師である礼がいる。そして、蓮の背中が見えた。
伊緒理は実言の前まで進んだ。
「どうぞ座って」
実言の言葉で伊緒理は円座に座った。
「本日は」
「よく来てくれたね、伊緒理」
伊緒理が言葉を発するのと同時に実言が言った。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。もっと早くお伺いするべきところを、今日まで来ることができませんでした」
伊緒理はそう言って頭を下げた。
「何を言うのだね。そんなことはない。今日が来るべき日だったと言うことだろう」
「そのようなお言葉、ありがとうございます。今日はお許しをいただきたくてお伺いしました」
「うん」
「蓮殿と密かに会っておりました。そして将来を誓いました。どうか私たちの仲をお許しください」
伊緒理はさらに低く頭を下げた。それを見つめていた実言は言った。
「ああ、いいよ」
「お父様!」
そのあっさりとした返事に蓮は思わず身を乗り出して声を上げた。
「何?蓮、反対して欲しいの?」
「そんなことはありません。しかし、そんなに簡単に、そのような言葉で言われると……」
「本当は私の許しなんて必要ないのだよ。それより、伊緒理、この子でいいのかい?君なら他の女人を選ぶこともできるだろうに」
「いいえ、私は蓮殿がいいのです。それよりも一族の政の力になれず、別の道を行く私に蓮殿を任せることはご不安が多いと思います」
「そんなことはない。君は君の道を行っているのだ。その道が間違っていないことは私の妻がよくわかっているよ。そして、典薬寮での働きぶりも聞き及んでいる。何も心配していない。それに、私の娘もね、その道を一緒に歩みたいと思っているのだろうから。ねぇ、礼」
そう実言は言って、隣の妻を見た。礼は頷いて、伊緒理に微笑んだ。
「この子は良くも悪くも自分に嘘をつかず突っ走っていくからね。大変じゃないかな」
実言は娘から婿になる男に視線を移して言った。
「いいえ、そのひたむきさが好きなのです」
躊躇なく義父の目を見て伊緒理は返事した。
「そうかい。よかったね、蓮」
実言は娘に向いて微笑んだ。
「私は娘が幸せになってくれたらそれでいいんだ。一族のことなど二の次だよ。だから、二人が一緒になると言うなら、それがいい。それが正解だ。よろしく頼む」
それから、礼の合図で料理と酒が運び込み細やかに二人の前途を祝った。
伊緒理はすでに典薬寮での職を辞する届けを出していて、受理されるのを待っている。伊緒理の知識と経験が必要であり、辞めてからも典薬寮に関わってほしいと言われているという。伊緒理はそれを我が責務だと思っており、何かしらの力になりたいと思っているため、その話し合いは行われている。そして蓮は典薬寮の出仕をきりの良いところで辞して、それを機に伊緒理のもとへ、七条に住むことに決めた。
伊緒理が都外の領地に作っている邸が完成するまで蓮は七条と五条を行ったり来たりして今まで通り母や伊緒理の手伝いをするのだ。
いつか実現できたらと思っていた伊緒理との生活が開けて、蓮は幸せな気持ちに浸って隣の伊緒理の持つ杯に酒を注いだ。

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