伊緒理の五条訪問の後、蓮はすぐに父の実言を通して典薬寮に出仕の辞退を申し出た。典薬寮の長官は惜しみつつも、岩城家の娘に長く下働きのようなことをさせるわけにはいかないと蓮の貢献に感謝して承諾した。
夏も終わる頃、最後の典薬寮への出仕となった。
蓮はその日に合わせて、大王の妃である藍に面会を求めた。
典薬寮の出仕の目的に藍との面会を増やしたいという思いがあった。大王との間に子ができないと悩む藍を慰め、身籠った時は一緒に喜び、出産まで支えた。もうこれまでのように会うことはできなくなるので最後に会っておきたいと思ったのだが、藍は返事さえくれない。
それは、会えば必ず蓮が妹の榧はどうしているのか、なぜ、五条に返してもらえないのか、と聞くとわかっているからだろう。
何かしらの返事があるかもしれないと期待半分、やはり何も無いかもしれないと諦め半分で仕事をしていたが、終に藍からは何の返事もなかった。もしかしたら、愛はそもそも蓮が面会を望んでいることを知らされていないのかもしれない。心の中で藍を責めることはいけない、と蓮は自分に言い聞かせた。
仕事を終えると一緒に薬草選別をしたり、宮廷で働く女官たちの元に行って体調の話を聞いたりした見習いの女医師や女官たちが目尻に涙を浮かべて蓮との別れを惜しんでくれた。
蓮は伊緒理の推薦と岩城の名を背負ってやってきた少し近寄りがたい人物だったと思うが、皆、温かく迎え、敬意を持って接してくれた。蓮も典薬寮での多くの経験は大変勉強になり、感謝しているのだった。
女人の輪から外れて立っている伊緒理の助手である賀田彦も寂しそうな顔で蓮に別れの寂しさと感謝の言葉を述べた。賀田彦の助けに蓮も感謝を伝えた。
この日、伊緒理は忙しいようで最後まで顔を見ることはなかった。
蓮は皆に見送られて付き添いの曜と共に典薬寮の館を離れた。
「蓮様と一緒にこちらによく通いましたね。蓮様を待つ間、あの館で働かれている皆さんとおしゃべりをして楽しい時間でした」
曜はしみじみとこれまでのことを思い出して言った。
「そうね」
蓮も寂しさに浸ったが、これから伊緒理との新しい生活が待っている。そのことを考えると寂しさはすっと消え去っていくのだった。
最後の日は美福門から宮廷を出ると決めていた。そこは宗清が詰めている門であり、運が良ければ会うことができると思ったからだ。
どの門もそうだが、美福門もいつもの通り大勢の人が出入りしている。
蓮は門の前まで来ると、もう、宮廷の中に入ることはないのでは無いか、と思った。再びここに来るとしたら、王宮のどこかにいる妹の榧に会いに来る時だ。王宮から救い出すために迎えに行きたいと思った。
蓮は門の前に立つ門衛の中に宗清がいないか目を凝らして見ていると。
「蓮殿!」
後ろから呼ばれて振り向いた。
そこには景之亮が立っていた。
「典薬寮からの帰りかな?」
往来の邪魔にならないように、景之亮は門の前から、その横にある詰所前に移動して、蓮もそれに従った。
「ええ、そうです……」
蓮はそう答えた後に続けて口を開いた。
「実は……今日が典薬寮出仕最後の日なのです」
「最後?……どうして?それはもったいない。……ああ、あなたも五条で礼様のお手伝いなど忙しいのかな。そうであれば仕方ないことだ」
「ええ……」
「あなたが典薬寮に出仕していれば、今のように門や宮廷の中で会うことができて、私は嬉しかったのだが……これからはそういった機会はないのだな。……寂しいことだ」
景之亮は本当に落胆したような表情で言った。
蓮は景之亮の言葉を聞いて焦りを感じた。
蓮と会うことが嬉しい、と言われて、そんな感情を抱かないで欲しいと思ったのだ。だから、蓮は言った。
「………私は……私が………典薬寮のお勤めを辞するのは……椎葉伊緒理様と一緒に暮らすためです」
「椎葉殿と……」
景之亮はそれまでの表情を引き締め、小さなため息をついて。
「そうか!椎葉殿とあなたが」
と明るい声で言った。
「……はい。幼い頃からよく知っている、薬草のことを教えていただいている尊敬する方です」
「そうか……椎葉殿と。……椎葉殿の典薬寮での働きを聞くに、確かに立派な方だ。あなたが慕うのもわかると言うものだ」
と言って、笑顔になった。
「………それはめでたいことだ。あなたの幸せを願っている者として、本当に。……椎葉殿があなたを幸せにしてくれる」
景之亮の言葉を聞いて、蓮は胸が痛くなり反射的に右手を胸に置いた。
息苦しくて、体を支えるのが難しい。
蓮は下におろしたままの左手をぐっと握った。
誰もが言ってくれる。父も私が幸せならいいと言う。景之亮も幸せを願うと言う。
私は幸せよ。だって、初恋の人と巡り巡って一緒になれるのだもの。これが私が求めていたものよ。
なのに、なぜ、胸が苦しくなるのだろう。………景之亮様が私を苦しくさせている。
「蓮?……どうした?気分が悪いのかい?」
蓮は景之亮の言葉で我に帰った。
「座ろうか。部屋を探そう」
少し息が荒くなって。体が傾きかけている。
往来の多い美福門の前で蓮をしゃがませておくわけにはいかないと、景之亮は蓮の肩を抱いて、門衛の詰所の一室を借りようと一緒に歩き出した。
「景之亮様………」
蓮は息苦しそうに景之亮の名を呼んだ。
「少し座って休んだらいい。あなたのことだから、出仕最後ということで色々と忙しくしていたのだろう」
景之亮が門衛の詰所に顔を出すと、休憩をしていた二人が腰掛けから立ち上がった。
「鷹取殿」
「やぁ、すまないが、急病人が出て、少し休ませたい。奥の部屋を借りるよ」
「はい」
景之亮を見て姿勢を正して起立する姿は、景之亮が衛府の中で多くの人に知られた、そうしなければならないほどの男であることがわかった。
「曜、蓮を支えて」
控えの間に入ると景之亮は蓮を座らせて侍女の曜を横に導いた。
蓮は曜に寄りかかって目を閉じた。
「水をもらってこよう」
そう言って景之亮は部屋を出て行く。曜は不安な顔で部屋を出ていく景之亮を見送って、自分の肩に寄りかかっている蓮を見た。
「蓮様、大丈夫ですか?」
「………大丈夫よ……少し、胸が苦しくなっただけ……景之亮様ったら……少しじっとしていれば大丈夫なのに」
「それだけ蓮様のこと大事に思ってくださっているのですよ」
曜は蓮の背中をさすりながら言った。
蓮を苦しくさせているのは他でも無い景之亮だ。
景之亮に伊緒理が幸せにしてくれると言われて、嬉しく思うはずなのに息苦しくなるほど動揺したのだ。
しばらくすると景之亮が戻ってきた。
「蓮殿、入ります」
入室の断りを言って景之亮が御簾を上げて入ってきた。
「どうだい?落ち着いたかい?」
座ると心配そうに蓮を覗き込み、竹の水筒を曜に渡した。
曜が水筒を蓮の口に持っていき、蓮は少しだけ水を口に含んだ。冷たい水が喉を通った。
「景之亮様……助けていただき痛み入ります」
蓮は小さな声でお礼を言った。
「何を言うんだ。これは当たり前のことだ」
水をもう一度飲むと、蓮は寄りかかっている曜から体を起こした。
「もう大丈夫です。急なことでびっくりしてしまって」
「本当に?無理をしてはいけない。誰か供をつけようか」
「いいえ、大丈夫です」
蓮は曜の袖を握った。
「そうか、では、門まで送ろう」
景之亮に伴われて蓮と曜は詰所を出た。その時も、休憩をしている門衛の男たちはすぐに立ち上がり景之亮に頭を下げた。
門の前に着くと、景之亮は蓮と向かい合った。
「蓮………もう、あなたには会えないのだね……。椎葉殿とのこと、さっき聞いて知ったことだが……寂しくてたまらない。……しかし、それがあなたの幸せと信じるよ」
言って、清々しく笑った景之亮は蓮に背中を向けて、自分の勤める左近衛府へと歩いて行った。
蓮はその背中が見えなくなるまで、見えなくなってもその方向を見つめていた。
景之亮が振り向くのではないか、と思ったのだ。しかし、振り向くことはなかった。
「蓮様、まだご気分が悪いですか?」
「……いいえ、違うわ」
「では……行きましょうか」
「ええ」
蓮は曜に促されて門の外へと出た。
その様子を門の手前の建物の陰から伊緒理は見ていた。
伊緒理は仕事が一段落して女官たちの部屋に行くと、たった今、蓮は立ち去ったと言うので蓮を追いかけたのだった。門の内で追いつけたら、一言声をかけ流ために。宮廷から外に出る門はいくつもあるが、蓮なら弟が守る門を通るのではないか、とそれに賭けて美福門に向かった。
門の前にいる蓮の後ろ姿が見えて、声をかけようとした時、蓮は伊緒理の前にいる大きな男に振り向いた。
男が往来の邪魔にならないように、門の横に移動しする時、男の横顔が見えて、鷹取景之亮だとわかった。
会話をしているが二人が何を話しているかはわからない。蓮が自分の胸に手を置いて、苦しそうにしていると思ったら、鷹取景之亮が蓮の肩を抱いて、隣に立つ門の詰所に入って行った。
しばらくして景之亮が詰所から出てきてどこかに行った。すぐに手に水筒を持って戻って来て、詰所に入った。
詰所と門が見える建物の陰に移動して様子を見ている伊緒理は、蓮の体に何か異変が起こったのかと心配に思いながらも、そばに鷹取景之亮がついていることが何を意味しているのだろうかと思った。
どれだけ待っただろうか。瞬きしただけのようにも感じるし、一刻経ったような気持ちでもあった。
自分はこのままここに立ち続けるべきだろうか、という考えがよぎった時、蓮と景之亮が詰所から出てきた。そして門の前で話をし、景之亮は立ち去った。
その姿を蓮は見つめている。長い時間、ずっと、その姿が見えなくなっても。
伊緒理は蓮をじっと見つめた。
蓮は表情はなんとも言えない寂しそうな表情をしていた。
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章25
小説 STAY(STAY DOLD)
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