New Romantics 第一部あなた 第三章3

小説 あなた

 実津瀬はいつも通りの毎日を送っていた。朝、起きて宮廷の見習いの仕事に行き、終わると塾の講義を聴いた。そして、気が向けば宮廷楽団の稽古場に行って、練習の様子を見ていた。
 何も変わらない日々。ただ、雪だけがいない。
 雪と出会う前の生活に戻っただけ、と思うが、心が躍る、苦しくなる、明日が楽しみで眠れないという初めて味わった心の動きは起こらない。無味な日々だ。雪と会うというだけで、あれほど次の日が待ち遠しく、心が躍ってしかたがなかった。会えなければ、雪は何をしているだろう、会えない日々をどう思っているだろうと思いをはせていた。
 その気持ちがなくなっただけで、こうも毎日が色あせてしまうのか。
 ひっそりと毎日を送る兄を心配して、蓮を始めとした弟妹たちは時間があれば部屋に来て話し掛けてくれる。面白い話に笑い声をあげると、皆、その様子に嬉しそうな顔をする。心配を掛けていると思うからこそ、早く、雪がいない日々に慣れないといけないと思った。
 夏の暑いあの夜、大王の前で舞を舞ってから実津瀬は一度も舞を舞っていない。楽団の稽古場に行くが、舞の練習はせず、淡路たち楽団の舞手の練習を眺めて、舞に合わせて音楽を演奏する時には笛を吹くだけである。
 実津瀬が舞の練習をしないことを誰も咎めたりはしないし、なぜだと聞きもしない。だから、実津瀬も稽古場に行くことは苦痛ではなかった。
 稽古場の壁に寄りかかって舞の練習を見ている実津瀬に、近づく人影があった。実津瀬はその人に顔を向けた。
「舞っている人を見ていたら、舞いたくなるのではないの?」
 優しい声が訊ねた。
「……そうですね……でも、まだ体が動きません」
「そう?……また、実津瀬の舞が見たいという人がいてね。実津瀬が舞う機会を作ってくれないか、と頼まれているんだ。秋の大祭で、実津瀬の舞を期待している人がいるよ。大祭で舞うならそろそろ準備をしなくてはいけない」
 宮廷楽団を率いている楽長の麻奈見に実津瀬は困った表情を見せた。
「……これから舞う準備をしても秋の大祭には間に合いません。私の舞を見たいと言ってくださるのはありがたいですが」
「そうか……残念だな……。でも、そろそろ淡路の隣で型でもまねてみたいのではないかな?嫌なことをしろとは言わないけどね、このまま舞をやめてしまうなんて思わないもの」
 実津瀬は困り顔を少し綻ばせた。
 言われたら、少し舞を始めたいという気持ちになって来た。もちろん、秋の大祭で踊ることはできないが、自分のために踊りたい。胸の傷ももう癒えた。雪も実津瀬の舞が好きだと言ってくれた。雪に、また見せてあげたい。
「少しずつ、練習をしたいと思います。いずれ、私の舞を楽しみにしてくださっている方々にもお見せできるように」
 実津瀬の答えに、麻奈見は頷いて。
「そうか……実津瀬の気持ちが整った時に思う存分舞ってもらおうか」
 と言って、実津瀬から離れて行った。
  

 前回の踏集いで鷹野は本命と決めた女人を得たことで、次の踏集いを心待ちにしていた。次こそは、その子と二人きりで言葉を交わしたいと意気込んでいる。当然のように、その集まりには実津瀬も一緒に来るという前提で話をしている。
 実津瀬も、なぜ?自分がと言ったことは言わず、自然の流れのように受け入れた。
「実津瀬は好きな女人がいたのだろう?」
 塾からの帰り道に突然、鷹野が言った。
 雪とのことは、父母、蓮には知れてしまったが、鷹野まで話が及んでいるはずはない。なぜ、鷹野がそんなことを言うのか、と内心驚いたが、そのような気持ちはおくびにも出さずに、実津瀬は隣の鷹野に顔を向けた。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなくだよ。実津瀬に親しくしていた女の人がいたんじゃないかって」
「そうなんだ」
「もう!しらばっくれようとしているな!実津瀬は秘密ばかりだ!私は実津瀬を信頼して何でも話しているというのに」
 本当に怒ったように、頬を膨らませて実津瀬は先をずんずんと歩いて行った。好奇心旺盛な鷹野に女人との付き合いの片鱗を見せると、あれやこれやと訊いてきて面倒だと思うのと、雪のことを思い出すのが辛くて答える気になれなかったが、鷹野の怒りようを見て気が変わった。
「鷹野!怒らないでくれよ」
 実津瀬は足を速めて、前を行く鷹野に追いついた。
「勘が良くて驚いた。でも、その女人とは終わってしまってね。別れとは辛いもので、少し引きずっている。思い出したくないから、あれこれつつかれるのが嫌なんだ。わかってくれよ」
 実津瀬が言うと、鷹野は実津瀬に振り向き、ニヤッと笑った。
「やはり、そうか。物悲しそうな表情、食欲もないのか少しやつれていたし、そんなことだろうと思った。……でも、そうだよなぁ。別れは辛いだろうなぁ。実津瀬が嫌われたのか?」
 実津瀬が困った表情をすると。
「そうだな。傷ついているんだもんな。いつか教えてくれよ。そうであれば踏集いで実津瀬の気に入る子と見つけたらいい!」
 鷹野は言って、実津瀬の肩を抱いた。
 その二日後、鷹野は実津瀬と一緒に踏集いに行くために邸に来た。実津瀬が本家に行った方が、道程に無駄がないのに、鷹野は時間をかけて実津瀬を誘いに来る。
「私が本家に行くと言っただろう?」
「うん、聞いたよ。でも、実津瀬が心変わりするかもしれないだろう」 
 と用心深い。
 前の自分なら、行きたくないと思ってやめてしまったかもしれないが、今は少し気が変わっている。
「そんなことはないよ。鷹野と一緒に行くさ」
 階を下りてきて、沓を履き、実津瀬は表門から鷹野と連れ立って山裾の集合場所まで歩いた。
 踏集いに行く気になっているのは、自分と同じように踏集いに乗り気ではないが、付き添いできているように見えるあの女人が気になるからだ。今日もいるだろうか?いたら、あの池の傍で一人思うままに踊るだろうか。
 集まりの場所に行くと、もうすでに多くの人が集まっていて、知り合いもいる。
 実津瀬と鷹野は知り合いに声を掛けた。塾での様子とはまた違った雰囲気である。その間も、鷹野は本命になったあの女人がいるか、目をきょろきょろさせている。
 その女人は、一緒に来たであろう友人の女人たちの陰に隠れていたが、集団が歩き出すと姿が見えた。鷹野はほっとしたような顔をして、男女が集まって作った輪の中に入って行った。
 実津瀬は宮廷から呼ばれた数名の楽団員の後ろに回って、笛の準備をした。
 男女が集まって距離を縮め、輪が小さくなっていくのを眺めていると鷹野はちゃっかり意中の女人の隣に立っていた。
 実津瀬は安心して、楽団の演奏者とともに笛を吹き始めた。
 鷹野は意中の女人、里の顔を覗き込むようにしている。小柄な人だから、内緒話をしようとしたら、鷹野が女人の目線に下りることが必要なのだ。
 一曲終わる頃に、実津瀬が鷹野を探すと、輪の中にその姿はなかった。里もそろっていない。これは二人で隣の森の中へと消えて行ったかと、想像した。
 そうであれば、実津瀬も安心して動けるというものだ。静かに楽団から離れて、林の中へと入って行く。向かうはあの池のほとりだ。
 楽団も少し休憩をしてから次の曲を奏で始めた。実津瀬も歩きながら、会わせて笛を吹く。
 軽快な笛の音の曲で、実津瀬は歩きながらだと指先をうまく動かせなくて吹くのに苦戦した。弾むような曲だから、実津瀬も自然と体が上下に動いて楽しい気持ちになった。そして、池が見えて来た時、そのほとりで思うままに舞っている女人の姿が見えた。
 実津瀬は急いで近くの木に身を隠した。こちらが見えているということはあちらからも見えるということ。盗み見ていることがばれるのはバツが悪い。
 しばらく、木に体を預けて演奏に集中した。そして、ゆっくりと木の陰から後ろを振り向くと、あの女人は両手を大きく空へと突き出して、くるくると回転していた。
 踊ることに夢中になって実津瀬に気がつくことはないようだ。実津瀬は前を向いて笛の音に心を込めて吹いた。
 曲が終わると実津瀬は笛から唇を離して、後ろを振り向いた。女人は池のほとりに腰を下ろして、池の方を見ている。
 左右の横の髪を上げて、頭の上でまとめている。後ろの髪は背中に垂らして、腰に届く長さだ。
 実津瀬からは背中しか見えない。仕方なく、前を向いて幹に体を預けた。
 ここは都の北西に広がる山の麓である。静かで秋の景色に変わりつつある森を見るのは、心が洗われる気持ちだった。目を閉じて耳を澄ますと、鳥の囀りと風に吹かれて葉の擦れる音がした。
 林の向こうで太鼓が鳴った。次の曲が始まろうとしている。実津瀬は木から体を起こし、腹に置いていた笛を取り上げて、準備をした。
 今度の曲は、ゆっくりとしたものを選んだようだ。実津瀬は、その曲に遅れて加わった。
 鷹野はどうなっただろう。初めての恋だから、戸惑っているのかな……。里も同じようなものだろうし、二人で困っているのかな。
 実津瀬は、帰りにそのあたりを鷹野に訊いてみようと思った。
 すっかり笛を吹くことと、鷹野のことに気を取られて、忍び寄る足音に気づくのが遅れた。
 笛を吹きながら、池のほとりの女人はどのように踊っているだろうかと顔を後ろに向けると、一本向こうの木に手を置いてこちらを見つめるあの女人の姿が見えた。目が合うと、女人は左手を上げて、口元を覆って後づさった。
 実津瀬も笛を下ろして、腰を浮かせた。池のほとりに座っていたあの女人が、近くで聞こえる笛の音に引き寄せられたのだろう。気づかれないように、と思っていたが鷹野の恋に気を取られて、注意を怠ってしまった。
「わ、私は踏集いに来ている者だ……怪しい者ではない」 
 実津瀬が言葉を発したので、女人は立ち止まってこちらをじっと凝視し窺う。
「あなたも、そうではないの?」
 実津瀬の言葉に、少し間を置いてから、こくりと女人は首を縦に振った。
「私は従兄弟の付き添いでね。集まりにはそこまで関心がないんだ。あなたは?」
 女人は口元を隠して警戒した顔で、実津瀬を見ている。
「私は笛が好きで、いつも懐に入れて持ち歩いている。楽団の音に合わせて吹いていたのだが、あなたに不審に思われたかな?」
 女人の顔は強張ったまま、じっと実津瀬を見ているから、実津瀬もその緊張を解きたいと思って声を掛けるが、全く効果はないようだ。どうしたものか……と思っていたら。
「……いつから……?」
 やっと女人が発した言葉は、口元を覆っているため、はっきりと聞き取れず実津瀬は声を反芻して、女人が何を言いたいのかを想像した。
 いつから……ここにいたのか?と訊きたいのか。
 それは……、想像するに踊っている自分を見たのか、と問いたいのだろうか。
「ひとつ前の曲から、ここに座っていた……」
 実津瀬が答えると、女人の目は恐れから、軽蔑のような視線に変わった。
「……私が池のほとりにいたのを見ておられたの?」
 その声は、思ってもみないほどに低い声で、女人が怒っているのがよくわかった。その声音に圧される形で実津瀬は頷いてしまった。
「……隠れて……盗み見しているなんて……」
 最後の言葉は震えているように聞こえた。
「いや……盗み見なんて……そんな、そんなことは」
 女人は一歩ずつ後ずさった。
 一歩逃げられると一歩追ってしまうのが、こんな時だ。実津瀬は女人に近づいて行った。
「踊っているあなたの姿、楽しそうで自由で、いいなぁと……思って……」
 実津瀬の言葉に、女人は眉間にしわを寄せて言い放った。
「やっぱり盗み見ていたのではないですか!」
「ああ、待って!」
 という実津瀬の言葉に、今度こそ女人は背を向けて池の方へと歩いて行った。
 実津瀬は、追いかけて行っても、どのように弁解したらいいものか、思いもつかなかったので、再び木の根元に腰を下ろし、向こうから聞こえる音楽に合わせて笛を吹いた。先ほどの女人とのやり取りが頭の中に現れて、途中何度も音を外してしまった。

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