「蓮!れーん!」
伊緒理は腹の底から力いっぱい声を出して蓮を呼んだ。
「れーん!返事をしておくれ!」
声を出した後は、耳を澄ました。自分の声を聞いた蓮が応えてくれる、という希望を持って。
未刻(午後二時)を回った頃だった。
長年傍で怪我人の治療をしていた医師、側近の従者たちと共に泣き崩れる去を励ましながら、昨夜の状況を聞いた。その後、伊緒理は館を飛び出し、館の裏道に去の館の馬を借りて下りて行った。後ろには去の元で医術を学び、伊緒理が束蕗原に来ると一緒に勉強会をしているうちの若者二人が蓮の捜索をするために馬でついて来ている。
伊緒理は蓮が誤って水の中に落ちてしまった、と聞いた時、去が何を言っているのか全く分からなかった。蓮が救護の手伝いのために裏道を下りて行って、なぜそんなことになるのか。
しばらく前、厩の前での蓮との再会。
伊緒理はそれまでも去の館ですれ違っていたことはわかっていたが、面と向かって会うことはもっと後になると思っていた。蓮!と名前を呼びそうになったし、蓮も昔のように伊緒理に話し掛けそうな雰囲気だった。途中、館の従者に声を掛けられて叶わなかったが。
蓮が元気に、去様の元で医術を学んでいることが嬉しかった。
去の館を訪ねた時、去がそっと手渡してくれた写本を見て、すぐにわかった。誰が写したものか。
「あなたに貸してもらった本を写してもらったのだよ」
誰が写したとは言わないが、当然わかるだろうと去は言いたげだった。
蓮!
離れてしまっても、あなたは大切な人だ。そのあなたが、水に流されてどこにいるかわからないなんて現実の出来事と認めたくない。
絶対に探し出すから。あなたを見つけるから。
今の裏道はすっかり水の引いており、麓まで下りると丘の上から裏道を流れてくる水が浅い川になって、行き場を求めて阿万川の方へと下っている。
蓮もきっとこの流れと同じような筋を通って連れていかれたのだ。
伊緒理は阿万川に沿って馬を進めた。
視線を上に向けると樹の上の方に、折れた枝がたくさん引っかかっている。馬に乗っても手が届かない高さだ。
一時でもあんなに高いところまで、水が上がったのかと思うと、伊緒理は大雨、洪水の恐ろしさを感じた。水の力は想像もつかない程、強いものだろう。蓮は抗っても抗ってもそこから抜け出せなかったのではないか。水の中に取り込まれてしまったら……体はもみくちゃにされ傷つき、上へと上がれず底へと突き落されたかもしれない。
……そうなったら、蓮は……
伊緒理は頭を振って、最悪な想像を振り払おうとした。
蓮はどこか安全な場所に辿り着き、助けが来ることを待っているはずだから。
「れーん!」
伊緒理は若者二人と共に、馬上から蓮の名前を呼び続けた。
「何度もみてくれ。見落としが無いように。水は随分高いところまで上がったようだから、もしかしたら樹に掴まっているかもしれない。頼むよ」
「れーん!」
「蓮殿―!」
男たちは交互に蓮を呼んだ。
去の館がある丘の裏手から阿万川の下流に向かう。川に並行して道があり、その両脇には大木が並んでいる。川の反対側は草に覆われた原っぱで、一部畑を作っている。奥には大きな樹が立ち、森になっている。原っぱの草は倒れて、水に浸かっている。上流から流れて来た板や器が浮いている。
辺り一面水に浸かって鏡のようになっている中をゆっくりと馬を進めて、蓮を呼んだ後に耳を澄ます。
その時、音が聞こえた。
伊緒理は振り返り、後ろをついて来る二人に向かって右手を上げて注意を向けさせ、その手を口元に持って行き人差し指を唇の前に立てた。静かにするようにとの合図。
馬を止めてあたりを見回していると、森の最前列の樹の枝から地面に落ちる影が視界の端に入った。
蓮!
伊緒理は直感的に思った。
馬を降りて、走り出した。
「蓮!」
たとえ蓮でなくても、洪水に巻き込まれて助けがいる人には違いない。
伊緒理はその樹の元に走り寄った。
姿は女人だ。
意識はあるだろうか。
「大丈夫か!」
伊緒理は女人を抱き起こした。
全身ぐっしょりと濡れていて、手や首筋には落ち葉や草の切れ端がペタリとくっついている。
真っ白な顔が上を向いた。目を閉じているが、それが誰であるか、間違えることはなかった。
「蓮!」
伊緒理は蓮の体を揺すった。
「……う……ん……」
蓮は揺すられた刺激で、声を漏らした。
「蓮!よかった……あなたを見つけられた。さあ、水だ。喉が渇いただろう」
伊緒理は腰に下げていた水筒を取り上げ、栓を抜いて蓮の口元に置いた。
「う……うん……」
それに応えるように蓮は呻く。伊緒理は水を口の中へと流し入れた。蓮が嚥下しているのがわかった。ゆっくりと全ての水を飲ませた。
顔や手に擦り傷はあるが大きな怪我はなさそうである。
「蓮、諦めるなよ。諦めないでくれ」
伊緒理は祈るように囁いて、蓮を横抱きにして立ち上がった。振り返ると一緒に探索に来ていた二人が丁度馬から下りたところだった。
「蓮だ。見つけた。すぐに、館に帰ろう。馬に乗せて行くから、手伝ってくれ」
伊緒理は馬に乗ると、二人に手伝ってもらい蓮の体を引き上げた。抱きかかえて紐で自分と蓮をくくると、すぐに馬を走らせた。裏道を登る手前で馬を下りて、蓮を横抱きして坂道を駆け上がった。一人は先にそのまま馬で館まで行き、蓮を見つけて、今ここに運んでいることを伝えた。
「諦めるな!諦めるなよ、蓮!諦めないでくれ。私があなたを助けるから、絶対に!」
腕の中でぐったりとして、反応のない蓮に伊緒理は話し続けた。
蓮がいない世の中を想像できるだろうか。
離れてもあなたは心の中にいた大切な人だから、失いたくない。絶対に助ける。
伊緒理は心の中で誓い、走った。
「伊緒理様!こちらです」
裏道の坂を上り切ったところに館の従者が立って案内してくれた。
指さす方は離れであった。庭を突っ切り、離れの邸の前の階へと向かった。
階の上には去が膝をつき、両手を胸の上に置いて、近づいて来る伊緒理を凝視している。
「蓮!」
「息はあります」
伊緒理は一気に階を駆け上がり去の前に跪いて、蓮を見せた。
去は腕の中の蓮の顔を覗き込み、その頬を撫ぜた。
「蓮……」
真っ白な顔は生気がなく、事切れていると言われたら信じてしまいそうで、去は涙をこぼした。
「こちらに褥を用意しました」
侍女が言った。
伊緒理は立ち上がり、部屋の奥へと入った。
「……蓮様!」
悲鳴を上げたのは蓮と一緒に都から来た侍女の曜だった。
蒼白な顔色で、去と同じように伊緒理の腕の中の蓮を覗き込んだ。
「着ているものを脱がせましょう。伊緒理殿、こちらに蓮を寝かせてください」
去は褥の手前で伊緒理に蓮を下ろすように言った。
曜が蓮の裳に手を掛けた。帯は解けていて、体に張り付いているだけだった。
「これ以降は我々が蓮を看ます。伊緒理殿は別室でお休みください。もし、あなた様の力が必要な時はお呼びしてもいいでしょうか」
「もちろんです。去様。今夜は泊まらせてください。明日、都に帰ります。それまでは、深夜でも構いません。私が必要であればいつでも呼んでください」
伊緒理の言葉に去は頷き、伊緒理は立ち上がった。
後ろでは蓮の着ている物が脱がされ、怪我の確認が始まった。
「どうぞ、こちらへ」
別の侍女が伊緒理を母屋の部屋に案内した。
蓮を抱いていた伊緒理も着ている物は水を吸って湿っていて着替えが必要だった。
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