Infinity 第三部 Waiting All Night59

小説 Waiting All Night

 それから朔は言われた通りすぐに寝所に入った。月は雲に覆われていて明かりのない夜である。真っ暗なのが嫌いな朔は高灯台に多めに油を入れるように命じていた。体を横にすると力が抜けて行って、自分がとても疲れていたことが分かった。静かに瞼を閉じた。
 荒益は、見回りに来ると言っていた。
 私のために……。
 朔は、荒益の優しい態度が嬉しい。昼間に春日王子と会ったことを超えて自分の心を占めるのだった。浮気な自分の心を棚に上げて、朔は荒益の優しさの中に全身浸かりたいと思うのだった。
 今の自分にはどれほど頼りにしたい情だろうか。しかし、そんな甘えたことが許されないことはよくわかっている。
 荒益は本当に夜中にこの離れを自ら見回りに来るだろうか。胸が苦しいと言えば、跳んでこの離れに来てくれるのだろうか。
 ああ、口にした言葉がどれほど本気なものかを試したい。
 そんな思いが朔にはあるが、本当に荒益が現れた時に自分がどのような態度を取ればよいかわからない。
 朔は何度か寝返りを打った。荒益や春日王子のことを、そして自分のことをとぎれとぎれに考えていると、眠りの入り口を出たり入ったりといった感じで寝付けない。
 もう、だいぶ夜も更けた。高灯台の灯りもだいぶ細くなったことが、随分と時間が経過したこと教えてくれた。
 朔は今度こそ、眠りにつこうと目を閉じた。本心は、眠むったら奈落に行くんじゃないかと怖くて不安になるのだった。
 その時、妻戸を開く音がした。とても小さな音だが、朔には聞こえて身を固くした。誰だろう?床を踏んで軋む音が近づいてくる。そして、朔の寝所の前でぴたりと止まった。
 朔はたまらず問うた。
「誰?」
 暫く間があって返ってきたその声は、名乗らずとも朔は誰だかわかった。
「朔、起きていたの?」
 褥を囲う几帳の陰から荒益が現れた。朔は、身を起こした。
「灯りが見えたからもしや眠れないのかと思って、こんな奥まで入ってしまった。起きていたんだね」
 高灯台の傍に立つ荒益は、数刻前に別れたままの姿で立っていた。
「荒益」
 朔が名を呼ぶと、荒益は引き寄せられるように朔の隣に跪いた。
「どうした?」
 高灯台の火は小さくなって、揺らめきは心もとない明るさしかない。それでも、朔は優しく微笑む荒益がしっかりと見えた。
「眠れない?食欲もなくて、眠りも満足に取れなければ、それこそ倒れてしまうよ」
 朔は意識したことではないが、荒益の膝の上に手を載せた。荒益の言葉が染み入る思いだ。そして、荒益も自然と自分の膝にある朔のその手を握った。
「一緒にいてあげる。お眠り」
 荒益は朔に横になるように促し、朔は素直に従った。荒益は朔の体に衾を掛けるとその上に横になり、朔に寄り添った。
「あちらを向いて」
 仰向けに横になった朔に荒益は自分とは反対の方を向けという。朔はゆっくりと向こうに体を向けた。
「不思議だね」
 囁くような小さな声で荒益は言って、衾の上に出している朔の手を後ろから握った。
「目を瞑ってごらんよ」
 朔の後ろにいる荒益がそれを確認することはできないが、朔は言われるままに目を閉じた。
 朔は闇の中にいるような気分で、心細くてじっとしている。
 真っ暗は怖い。
朔は、目を開けてしまおうかと思った。
 その時、闇の向こうに白く浮き上がる影が見えた。朔はじっと目を凝らしてみていると、影はこちらに近寄ってくる。そして、それは人の形をしていてその輪郭が白く浮き上がってくる。
 誰だろう?
 影は近寄ってきて、とうとう朔の体に手を伸ばした。朔は悲鳴を上げるすんでのところで。
「朔」
 と名前を呼ばれた。
「朔、すまない」
 それは、荒益の声である。
 朔は再び目を凝らした。照れたように笑う荒益の顔が浮き上がった。
「こんなふうに忍んで訪ねてしまうなんて、お前は私を浅ましく思うかもしれないね」
 目に前にいる荒益は、若々しい青年の顔である。そう、婚約時代の頃の。
 子供の頃から実言に夢中だった朔は、椎葉荒益という少年の名を知ってはいたが、ただそれだけだった。それが、実言との婚約を破棄されて何の縁か荒益との婚約が決まった。
 男女が一緒に遊ぶ年のころを過ぎてからは荒益の姿を見たことがなく、婚約の儀の日が初めて顔を合わせるようなものだった。
 親同士が決めたこととは言え、婚約を破棄されて余りもののようになった自分を妻にするとは損な役回りを押し付けられたものだと、この男を可哀想に思った。そして、自分に対しても可哀想な女だと思った。
 実言との婚約の儀に来た衣装をもう一度着るなんてことは、死んでも嫌で、新しい物を作ってもらい着飾って荒益が来るのを待った。せめて生まれ変わったように新しい衣装に袖を通して、最高に美しくなりたいと思った。
 婚約の儀が終わって、朔の部屋で荒益と二人きりになったときに、やっと荒益を見ることができた。それまで、恥ずかしくて荒益を見ることもできなかった。
「朔?」
 ずっと下を向いている朔を心配して荒益がにじり寄ってきて、声をかけた。すぐ近くで声がして、朔はその時に意を決して顔を上げた。
「子供の頃に、会ったきりだね。どこかの邸に集まって遊んだりしていたころ以来だ」
 柔和な笑顔でゆっくりと話しかける荒益は、実言とは違う雰囲気で、それが朔の心を少しほぐした。朔は強張らせた表情を崩して、頬と口元を少しほころばせた。
「よかった」
 笑った朔を見て、荒益は安堵して、意識せずとも言葉が出た。そして、荒益は朔が膝の上に置いている手を取った。朔は驚いて再び荒益を見上げた。そこには、きっちりと髪を結い上げて乱れ髪一筋もなく、美しく伸びた眉の下に大きな目を少し細めた精悍な表情の男の顔があった。
 その日から、荒益は時間を見つけては朔の部屋を訪れた。宮廷に見習いとして仕えている合間を見てだった。
 ぎこちない対面が続いたが、三度目に荒益は朔の手を引いてその体を自分の腕の中に入れた。
「……美しい。……最初に、そう伝えたかったけれど、あなたにとっては言われ慣れた言葉かと思って、口にすることがはばかられた。でも、やはりそう言わずにはいられない」
 朔は婚約破棄された自分にいじけて、素直にこの婚約を喜べなかったが、荒益からそう言われて心が躍った。自分は認められていると思えて、嬉しかった。
 そして日を重ねて打ち解けたと思えた頃、荒益は何の前触れもなく夜中に朔の部屋へと忍んできたのだった。
 その夜は、少し蒸し暑くて朔は寝所で横になってもすぐには眠りにつけなかった。すると、妻戸がゆっくりと開く音がする。音をさせないように立ち止まっては進みをして、不連続な音がした。
「……誰?」
 侍女かと思った。何かこの夜更けに急に伝えなくてはいけないことでも起こったのか、と不安になった。
「朔……私だ」
 荒益の声に、朔は驚いた。そして、安堵と共に驚喜していることに気付いた。
 褥を囲った几帳の陰から荒益の姿が現れた。
「お前は、私を浅ましく思うかもしれないね」
 開いた妻戸から漏れる月明かりで荒益の自嘲した笑みが見えた。朔は、そんなふうに思うなんて、と心の中で否定した。
「私の待ちきれない思いを分かって欲しい。いつもまでも美しいお前の昼間だけしか知らないなんて、嫌だから」
 荒益は朔の足元から衾の上にあがって、朔に触れる距離に詰め寄った。
 朔は少し身を縮めて、恥ずかしそうに下を向いたが、心は裏腹に荒益の情熱的な言葉に喜んでいる。しかし、荒益の情熱的な言葉とともに、この身を委ねるのをためらう気持ちも芽生えた。
 荒益はどう思うだろうか……。
 朔は、不安になるのだった。
 荒益は起き上がった朔の前に膝をついた。朔は衾から出て荒益の前に座った。荒益は向かい合った朔の膝の上に置いた手を取って、指先で、手のひらで、愛しむように揉んだ。それからしばらくして、意を決して左右の手をそれぞれ取って、朔を膝立ちさせるように体を起こして力強く自分の膝の上に乗せた。
 荒益の膝の上に乗ると、朔は荒益を見下ろす位置に顔が来て、自分の顔を見仰ぐ荒益が見えた。困ったような顔をして、恥ずかしそうに笑っているのは、自分の欲望を剥き出しにしてしまったことの照れのようだった。
「朔……」
 荒益は朔の背中に手を回して、自分を近づけた。朔はみるみる荒益の顔が近づくのを冷静に見つめた。そして、ゆっくりと荒益の唇が自分の唇に触れるのを感じた。
 荒益はその柔らかな感触に悦び、深く求めた。朔も無我夢中で荒益の体に抱きついた。その後続く荒益の怒涛の動作に精一杯応えた。
「……朔」
 後ろから耳元で囁かれて、朔は身じろぎした。男の腕枕で少しまどろんでいたのだ。
「夜が明ける。……私は行かなくては」
 体を離す前に、荒益はもう一度朔を抱きしめた。
「離し難いよ。だって、お前をこんなふうに愛してしまったら、ひと時も間を置かずに再び愛したいと思うものさ」
 朔も荒益の体が離れて行くのを寂しく思いながら、褥の上に起き上がった。
 脱いだ衣装を手早く着付けている荒益の背中が愛おしくて、朔は薄い衣を引っ掛けて荒益の背中に抱き着いた。
 立ち上がった時、体の奥に残る痛みが体の中を走った。それは初めての痛みだった。
人の許婚になるのは二度目だが、一度目の時は……。
 初めの許婚者である実言と部屋で二人きりになった時、実言は朔を抱きしめた。その抱擁に朔は心躍った。大好きな実言と、肌が触れ合ってその体温を感じながら、実言の腕がゆっくりと朔の体を回って締め付けてくる。幼い頃から夢見ていたうっとりする瞬間だった。
 実言の顔が近づいて、驚いて逃げる朔の唇を追ってきた。朔はすぐに逃げるのをやめて、実言の唇を受けた。ゆっくりとそしてきつく吸われて、朔は実言の腕の中で脱力した。実言はそんな朔を腕の中にしっかりと抱きとめて、愛おしそうに頭を撫でてくれたのだ。
 しかし、それ以上のことに煤前に婚約解消となった。 
 荒益が見せた激情とそれから続く愛の行為を、実言からされることはなかった。
 実言は朔に性愛の欲望を抱かなかったのか。いや、朔が女として愛してもらうまでに至らなかったのか。
 朔は婚約解消が決まった時から、そのことに深く傷つき苦しんだ。
 どんなに、美しいと褒めそやされても、好きな人に愛されないのでは何の意味もない。
 今、荒益は先の愛されなかったという朔にとっての隠し事を知って、どう思うだろうかと、朔は性愛の悦びに浸る反面悩ましく思った。
 しかし、そんな心配や悩みは無用のように、荒益は夢中に朔を愛してくれた。ひとたびもその行為は停まることなく、愛の言葉を伴って朔を悦楽の中へと道連れにしたのだった。
 朔は、帰り支度の荒益の背中から離れまいとひたと抱き着いた。
 荒益を愛し始めたことを自覚したのだった。
「お前も同じ思いでいるんだね。朔、私と同じ」
 荒益は背中から縋りつくようにきつく抱き着く朔の手を取って振り向き、朔と向かい合って言った。
 朔は妻戸まで荒益に連れ添った。
 妻戸を開けると、月は西に傾いていて、暁の静かな時が広がっていた。東の空はその方角にそびえる山の稜線をほの白く浮かび上がらせている。
 朔は再び西の空に白く浮かぶ月を見た。今夜のことをこの月は見ていただろう。
 夏といっても、朝方は薄い衣一枚では寒いと思って、荒益は部屋を出るとき朔から脱がせた上着を拾って持ってきたものを妻戸の前で着せかけて、朔の視線を追って一緒に西にある消えそうな月を見た。
「朔……行くよ。いつまでもこうして立っていたら、お前が風邪を引いてしまう。今朝はとても冷えているから、早く部屋にお戻り」
 そう言ったのに荒益は朔の体を抱き寄せた。強く抱きしめられて、胸が押しつぶされそうと思いながら、朔は荒益を見上げて小さな声で言った。
「すぐに会いたい。離れてしまったら、あなたが恋しくて何も手に着かないわ」
「……すぐに戻るよ。宮廷の仕事が終わったらすぐにこちらに寄ろう。それまでの短い時間のお別れだ」
 朔は頷くと、荒益は暁の中でしばしの別れを惜しみながら最後の抱擁をした。
 
 朔は目を開けた。先ほどまで見ていた夢のような昔の記憶から覚めたのだった。
 目を開けても、真っ暗で灯台の火は終わったのだとわかった。
 ……荒益……荒益は去ってしまったの?
 朔は、後ろに付き添って寝てくれたはずの荒益を確認しようとして起き上がろうと身じろぎしたときに、後ろから声がした。
「朔、どうしたの?」
 しんとした暗闇に優しい声がした。
 ああ、荒益はまだ傍にいてくれたのだ。
 安堵して、朔は荒益の方に体の正面を向けた。真っ暗闇は変わらず、荒益がどうしているのかわからなかった。衾の中から左手を出して、荒益の声がした方に伸ばした。
 恐る恐る伸ばした手は上手く荒益に触れてその指先が荒益の頬をなぞった。朔は、その感触を頼りに、荒益の頬を包み、右手も伸ばして左頬も包んだ。
 目の前にあるであろう荒益の顔は、暗闇が隠してしまっている。じっと目を凝らしていると、ぼんやりと白い影となって荒益が見えてくる。
「……荒益」
 吐息のように言って、朔は自分からより距離を縮めた。
 浮き上がってきた荒益の顔は、今の顔だ。十年連れそった、年月を重ねたが精悍さは失われていない美しい男の顔。
「どうしたの、朔?……お前はまるで、この邸にやってきたばかりの頃のようだよ」
 朔は闇の中でも煌めく荒益の瞳を見つめた。
「そのころのお前は、とても不安げで、私だけしかいないと頼りにしてくれた」
 その頃の朔の心はこうだ。
 だって、あなたは私を一番大切にしてくれて、愛してくれる人なんですもの。
「いつだって、私の腕の中に入って、この体を委ねてくれた」
 朔は、暗闇にうっすらと浮かぶ荒益の両頬に置いた親指でその頬を撫でた。
「今も私のかわいい妻のままだ」
 荒益はそっと囁いた。みるみると朔の手は押し戻されて自分に近づいてくる。それは、荒益の顔が朔の方へと向かっていることをあらわしていた。
「朔」
 唇と唇が触れそうなほど近づいたところで、荒益が朔の名を呼んだ。朔は、荒益の熱い息が唇に吹きかかって、ゾクッとした。しかし、横を向いたりして顔を逸らしたりしない。
 荒益が一呼吸置いたのは、朔の様子をみたのかもしれなかった。
 荒益は朔の唇に自分のそれを重ねた。ゆっくりと吸って離してまた重ねた。深く深く朔の中へと入って行く。
 朔は今までの不貞を全部話して、許してほしいと言えたらどんなに楽だろう。たとえ、荒益から許しを得られなくても、この男を裏切り続けるよりはましに思った。しかし、もうそのような告白はできない。
 荒益は唇を離したが、再び朔の唇に軽く触れて、触れたかと思ったら強く押し付けた。そして、ゆっくりと離して、朔の体をかき抱いた。朔の荒益の頬をとらえていた手は、荒益の胸の間に収まってじっとして荒益に抱かれた。
 荒益は両手を朔の背中に回して、左手でしっかりと抱きとめ、右手で朔の長い髪を撫でた。撫で終わったら、自分の胸に置かれた朔の手を取って強く握って言った。
「お眠り。傍にいるから」
 今は、都合の悪いことは置いておいて、夫の胸の中にこの身を委ねよう。
 なんとも言えぬ安らぎの中で、朔は今度こそ眠れそうな気がした。

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