芹は離れで生まれた女児に乳を飲ませていた。
娘が大きな声でお腹が空いたと泣くとすぐに乳首を差し出して力強く飲む様子を見つめた。今のところ乳の出は良くて、乳母より芹の方が飲ませている。
そこへ外で邸の使用人の子供達と遊んでいた淳奈が帰ってきた。母の前に座って妹が乳を吸っている様子を見つめた。
乳首から口を離した赤さまを見た淳奈は母に言った。
「赤さまはお腹がいっぱいになった?」
「そうね、お腹がいっぱいになったみたいね。淳奈はお腹が空いた?……ん?どう?」
母にそう聞かれて、淳奈はなんと答えようかと迷っているようだ。お腹が空いたと言ったら、赤さまのように乳を吸わせてくれるのだろうか。まだ幼い頃の母の温もりを思い出すとともに、妹ができたのだから赤さまと同じようなことをしていてはいけない、という気持ちが淳奈の中でぶつかっているようだった。
芹は赤さまみたいに甘えたいという淳奈の幼い気持ちをかわいいと思う一方で兄になったのだからわがままをしてはいけないという気持ちとの間で葛藤している姿を成長したと頼もしく感じるのだった。
赤さまを下に寝かせて、芹は椀に水を入れて淳奈に渡した。淳奈は三度に分けて水を飲んで椀を返すと、芹も水を飲んで喉を潤した。
淳奈は自分の目の前に寝かされている妹の顔を覗き込んだ。
まだ生まれて十日。寝ていることが多い中で、起きている時に小さな手の平に指を置くとぎゅっと掴んでくれるのが嬉しくて何度も同じことをしてしまうのだった。
芹が再び赤さまを抱こうとすると、淳奈が赤さまを抱きたいと言った。
「いいわよ。こちらにいらっしゃい」
芹は淳奈を自分の前に後ろ向きに座らせて、後ろから手を出して赤さまを抱いて淳奈の膝の上に載せた。
「どう?重たい?」
「重くない。かわいい」
淳奈は毎日、一度は妹の顔を見てはかわいいと言っている。
「そうね、かわいいわね」
芹は淳奈の後ろから一緒に赤さまを覗き込んで言った。
淳奈にもこんな時期があったと芹は懐かしく思いながら、眠そうな赤さまを見つめた。
それは突然だった。
「芹!淳奈!」
呼ばれて、芹も淳奈も一緒に顔を上げた。
几帳の影から日焼けして無精髭を生やした男がぬっと現れたのだ。
その声は懐かしさを覚えたのに、目に見える姿は異形だ。芹は咄嗟に赤さまを引き寄せ、淳奈も一緒に胸に抱いた。
「芹……」
男はゆっくりと几帳の前に来て座った。
「……父さま……」
淳奈は呟くように言うと、芹の膝の上から立ち上がって、男に向かって行った。芹は赤さまを抱き直して、淳奈を見守った。
「父さま!」
「淳奈!」
淳奈は男の広げた腕の中に飛び込み、男に頬ずりしている。
「芹」
淳奈を抱いて立ち上がり、男は一歩一歩と芹に近づいてきた。
芹は赤さまをしっかりと抱いて男の顔を見上げた。
「芹……待たせたね」
「………実津瀬……いつ……」
蓮は突然の実津瀬の出現に驚き、声が真っ直ぐには出なかった。
「今さっきだ。都に入って真っ直ぐに帰ってきた」
実津瀬は斎王へ遣わされた新年の使者と一緒に帰ってきたが、宮廷への帰京の報告は使者が一人で行った。実津瀬は体調がよくないため、宮廷の途中にある自邸に帰したことにした。この松尾の宮から都までの道のりで結ばれた友情で、その嘘は真になった。
実津瀬は淳奈を抱いたまま芹の前に座った。
「すまなかった」
真っ直ぐに芹を見つめる男は芹の記憶にある実津瀬から随分と髪が伸び、真っ黒に日焼けしており、顔は髭が生え、頬はこけている。
だが、この人は実津瀬である。
毎夜無事であることを祈り、早く帰ってきて欲しいと願ってきた人だ。
「実津瀬……やっと……やっと……帰って来てくれたのね」
「ああ、本当にすまない」
実津瀬は左手に淳奈を抱き、右手を伸ばして蓮に触れようとした時にその手は止まった。
「ああ、可愛らしい赤さまだ」
実津瀬は目を細めて赤さまを見、小さな驚きを声に出した。
しかし、実津瀬は頭が回らないだろう。この子が自分の子だとは。
「赤さまは妹!」
淳奈が元気よく実津瀬を仰ぎ見て言った。
「かわいいの!」
「赤さまはいもうと……」
実津瀬は淳奈の言葉を反芻し。
「芹……この子は……」
顔を上げて芹に問うた。
「………十日ほど前に私が産みました。お父様の帰りを私たちと待っていたのよ」
「芹……ああ……あなたは……私にこんな喜びを用意していてくれていたのか」
「………」
芹はなんと答えたらよいか分からず、黙って微笑んだ。
「抱いていいかい」
「ええ、もちろんよ。この子は待っていたのですから」
芹が右腕の中に赤さまを抱かせて、実津瀬は小さな赤さまの顔を見つめた。
赤さまは見ているだけで笑顔になってしまう。
「ああ、芹、嬉しいよ。嬉しいよ」
笑顔で芹を見上げた実津瀬の目には涙が浮かんだ。
実津瀬は母や弟妹たちにとりあえず落ち着け、顔や手を洗えと言われて、盥の水を使って顔や手を洗い人心地ついたところで離れに送り出された。口を揃えて芹と淳奈は元気だといい、それはこれから自分の目で確かめたらよい、と言われて離れに送り出されたが、皆、生まれた命のことを言いたいが、自分の口から言うのを避けるために言葉を途中で止めていたのだとわかった。
実津瀬が戻ってきたことは五条の邸を駆け巡った。やがて父実言も宮廷から戻って来て、実津瀬は父に帰京を報告した。やっと実津瀬が帰ってきたと、その夜は祝いの夕餉をしたかったが、時は夕方で日が暮れ始めていて準備が難しいため明日、豪華な料理を準備して行うことになった。
帰京の夜は離れ離れになっていた親子夫婦水入らずで過ごしたらいいと、実津瀬は離れに戻った。
部屋に入ってきた父に淳奈は飛びつくと、すぐに父の膝に座って離れることなくこれまで甘えられなかった分を思う存分甘えたいと、話が止まらない。今日起こったことを話し続ける。実津瀬も遮ることなく淳奈の話を聞いた。
夕餉の時間になると槻と編が膳を持って入ってきた。実津瀬のために焼き魚や猪肉の煮たものなど有り合わせであるが豪華な料理が膳の上に載って出てきたのは、さすが岩城家である。
「あなたは随分と痩せてしまったわ。旅の間は食事もままならなかったの?」
実津瀬は頷いて言った。
「こんな豪華な食事はなかった。いつも粟を混ぜた握り飯だ。途中、群行のための中継地では焼いた魚や青菜が食べられたけどね」
食事が終わると、芹は赤さまが泣いたので乳を飲ませた。
その間、実津瀬は母屋に行って父と話をした。父からは実津瀬が都を離れてからの都の様子を、実津瀬から群行と松尾の宮での桂の様子を話した。
芹は赤さまに乳を飲ませ終わると、赤さまを乳母に渡して部屋から下がらせ、実津瀬が戻ってくるのを待った。
しかし一向に実津瀬が戻ってくる気配はなく、褥の上に横になるといつの間にか眠ってしまった。
どれくらい眠っていただろうか。芹が目を覚ましたら、実津瀬が褥の脇に座って芹を見ていた。
芹は驚いてすぐに起き上がった。
「いや、いいんだ。そのまま横になって。子を産んで十日しか経っていないのだろう。体はまだ大変な時だろう」
「いいえ、大丈夫………」
芹は実津瀬の前に座り直した。
そして、なんと切り出そうかと迷い、意を決して実津瀬を見上げてすぐに頭を下げた。
「ごめんなさい」
「すまない」
二人の声が重なった。
それに驚いて二人は顔を上げて目を合わせた。
実津瀬も芹と同じように頭を下げて詫びたのだった。
「何をいうんだ。謝るのは私だ」
実津瀬は強い口調で言った。
「いいえ、私よ」
「何を謝るというの?」
「赤さまのことよ」
「赤さま?なぜ?よく産んでくれた。その間、私はそばにいられてなくて申し訳なく思っている。本来なら、ひと月あまりで帰ってくるはずだったのに、こんなにあなたと淳奈を待たせてしまった」
「いいえ。私がいけないのです。本当は……あなたがここを発つ時にはあの子がお腹にいたことがわかっていたのにあなたに伝えなかった」
「うん………そうか。そうだったのか」
「………」
「あなたは考えてくれたのだろう。子は生まれてみるまでわからない。私に無用な心配をさせないようにと。私がいない間、無事に過ごして産んでくれたのだ。感謝こそすれ、なぜわかっていたのに教えてくれなかったのかと責めることはない。何も気に病むことはない」
「……はい」
「抱かせてくれ。随分と離れていたんだ」
実津瀬は目の前の芹を引き寄せて固く抱いた。
「芹、会いたかった。恋しかった」
芹も実津瀬の背中に手を回して言った。
「私も会いたかったわ。寂しかったのよ」
「悪かった。あなたを悲しませた」
「聞き分けのいいふりをしてしまって苦しかったの」
「うん。すまなかった。……顔をよく見せておくれよ」
「優しい顔じゃないかもしれない」
「いいんだ。どんな顔でも。私を待っていてくれた愛しい妻。かわいい我が子を産んでくれた愛する人」
「そんな調子の良い言葉を言って」
「偽らざる気持ちだ。愛しい人。どんな気持ちもぶつけておくれよ。腹が立っている。怒っている。呆れている。どんなこともでもいい」
「あなたがいう通りよ。不安だったわ。怒ってもいるわ。帰ってきてくれないのだもの。どうしてって思っていたわ」
「うん。やっと帰って来られた。もう私たちを邪魔するものはない」
「実津瀬」
「私たちを離れ離れにするものは無くなった」
「……」
実津瀬は妻を抱く手を緩めて顔を上げた。
「愛している人の元に帰ってくると決めていた。だからどんなことがあってもあなたの元に帰って来た」
実津瀬はゆっくりと芹に唇を重ねた。
芹は体の中から震えた。たまらず涙がこぼれ落ちた。
「もうどこにも行かないで……私と子供達のそばにいて」
唇が離れると芹は言った。
「うん。どこにも行かないよ」
実津瀬は芹を抱いて、褥の上に上がり体を横にし、襖を引き上げて体を覆った。
その下で実津瀬は芹の体を抱き寄せて、芹も強い力で実津瀬に抱きついた。
「あの子に名前を贈ってあげて。あの子を産む頃にはあなたは帰ってくると思っていたの。でも、帰ってくる前に生まれた。だからまだあの子は赤さまとしか呼ばれていないの」
「わかった。よい名を贈ろう」
眠りに落ちる前の芹の言葉に実津瀬は返事した。

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