宗清が言うように、蓮が景之亮のところに行ってしまって、五条の邸はまた一段と寂しくなった。
もうひと月も経てば、新しい年を迎えると言うのに、実津瀬も榧もいつ、ここに帰ってくるのか誰もわからない。
芹は大きくなったお腹を労りながら、お産の準備をしていた。
左手は親指しかない身では、赤さまの肌着を縫うのも大変だ。身籠ったことがわかってから準備を始めていたが、義母と義妹の珊もそれぞれ時間を見て手伝ってくれたので準備は万端である。
淳奈の時よりお腹が大きいと感じる。大きな子が生まれてくるのねと、芹は愛おしそうに腹を何度も撫でていると、それを見ていた淳奈もそばに来て、一緒に撫でてくれることもあった。
淳奈は伊佐に行く父から言われた言葉がよほど心に響いたのか、我が儘を言わず、よく芹を手伝って支えてくれる。そばにいて、あの物はどこかしらと言ったら部屋の中を探してくれたり、自分よりも母に昼寝をするように勧めたりする。
蓮はそんな淳奈が愛しくて、目の前に座ると両肩に手を置いて引き寄せ、ぎゅうと抱きしめる。
淳奈もその時は母に甘えていいのだと思うのだろう。抱きついてきて母の腕の中で眠ってしまうこともあった。
年の瀬が迫ると芹は炭櫃のそばで脇息にもたれて考えた。
見立てでは、年を越したくらいに生まれるだろうとのことだった。
実津瀬が……帰ってきたら伝えようと思っていたのに、伝えられないまま産まれてしまうかしら。
でも………もしかしたら、実津瀬は帰って来ないかもしれない。
その予想が当たると………
あなたはお父様に抱き上げられることはないわね………。
芹はお腹をさすった。
女王は夫を手放すだろうか………夫は女王を振り切るだろうか………。
夫を信じているが、年を越しても帰ってこないとなると、芹の予想は当たるのかもしれない。しかし、夫がいなくても、夫の両親弟妹が助けてくれるので芹は不安になることはなかった。ただ、この気持ちに整理をつけるだけだ。夫は女王を選んだという事実について。
新年を迎えると宮廷での行事が目白押しで、五条の邸も忙しかった。しかし、芹はいつ産気づいてもおかしくないので部屋で休んでいろと皆が言い、その言葉に従っておとなしく炭櫃の前に座っていた。
そして、お腹の子は全てを見て計ったように新年の行事が終わって皆が一息ついた時にこの世に産まれてきた。
朝、淳奈が祖父母の部屋に飛び込んできて、その後ろを侍女の槻が追いかけて来た。
「どうしたの、淳奈?」
朝食の最中の祖母の礼が淳奈の手をとって言った。
「お母さまが痛いって言ってる!」
「えっ!」
その言葉ですぐに悟った。あと追いかけてきた槻も続いて言った。
「どうもお産が始まったようです」
翌日の夜明けに芹は女児を産んだ。大きな産声が芹を安堵させた。
蓮も五条に泊まり芹のお産の手伝いをした。
「まぁ、かわいらしい。女の子よ」
体をきれいにしてもらって横になると、産湯が終わった生まれたばかりの子を蓮が連れてきた。
子は芹が縫った肌着を着せられて、おくるみに包まれて芹の開けた腕の中にすっぽりとおさめられた。
少しやつれて疲れた顔の芹は我が子の顔を覗き込むと微笑んだ。小さなかわいい我が子である。欲しくて欲しくてしかたなかった。夫とともに望んでいた……。
「この子をなんと呼んだらいいのかしらね。名前はどうするの?」
蓮が言った。
「実津瀬に………」
と芹は言って、口をつぐんだ。
実津瀬がいつ帰ってくるかもわからないのに、この子はいつ、名前をつけてもらえるだろうか。
「そうね!赤さま!もう少し待ってね。あなたのお父様はあなたに会いたくてすぐに帰ってくるわよ」
自分は間違っていたのかもしれないという考えが芹の頭を巡った。夫も子供を望んでいたのだ。身籠ったことを言えば、実津瀬は喜んでくれて、伊佐に行く前に生まれて来る子供に名前を授けてくれたかもしれなかったのに。
意地を張って、この子に申し訳ないことをしたかもしれない。父から何ももらうことができないのだ。
「ああ、塔が見えてきましたね。都はもうすぐです」
実津瀬の隣で斎王への新年の挨拶に来た使者ははしゃいだ声を上げた。
この道をまっすぐ行けば羅城門が見えるが、その前に都の東西に立つ二つの塔が遠目に見えたのだ。
松尾の宮を発って最初は順調に都に向かって進んでいた。
都から斎宮に向かうときは、輿に乗せた桂を連れた群行で多くの人が徒歩で付き従っていたから大変だった。帰りは斎王に新年の挨拶のために都から来た使者と使者が乗ってきた馬一頭と一緒だ。川久知までは順調にきたが、川久知から阿保の間にある川が、実津瀬の前に立ちはだかった。
一日前に雨が降って川の水が増えていた。冬の冷たい水の中、膝上まで浸かって川を渡るのはその後の旅程に障るだろうと、二人で相談して水が引くまで待つことにした。
「そう焦っても仕方ないでしょう」
川のほとりの集落の世話役の家の一室で一緒に帰る使者はそう言って呑気に横になっている。安全を期して川の水がくるぶしまで下がるまで二日待った。そして、荷を背負った馬を引いて、実津瀬と使者は自分で歩いて川を渡った。
川の水は思った以上に冷たくて体の芯から冷えて、川を渡ったら対岸の村に駆け込み焚き火にあたらせてもらってから阿保へと向かった。その途中、二人は風邪を引いてしまったらしくどんどん体調が悪くなり、息も絶え絶え阿保の地に辿り着いた。
阿保の地になる役所に駆け込み、寝泊まりする部屋を差配してもらった。
悪寒がして震えが止まらず、体は熱い。
あてがわれた一室で二人は几帳を挟んで衾に包まって、体の痛みや咳、熱に耐えた。
こんなひどい風邪は引いたことがない。
実津瀬は朦朧とする意識の中で考えた。
寒い中長い道のりを歩き、冷たい水の中に入ったために体力が消耗して、病を近づけてしまった。
都の五条の邸では病気にならないように日々の体の調子を訊いてくれて、その症状に効く薬湯を作って飲ませてくれた。そのおかげで体がこんなに弱ることはなかった。いつも五条の女人たちが見守ってくれていたのだ。
母、妹………そして、妻。
芹はどうしているだろうか。一行に帰ってこない夫に腹が立っていることだろう。
こんなつもりではなかったのだ………。
早く帰って芹の前に伏して、謝りたい。
こんなところで寝ている場合ではないのだが、今はこの体をどうにも立てられないのだ、と実津瀬は心の中で詫びるのだった。
実津瀬たちの体が十分回復するのに七日かかった。
本来なら七日もあれば都に辿り着けるのに、ここまで来るのに十日もかかっている。
実津瀬は体の回復につとめながら早く都に帰りたいという気持ちだけがせいていたが、一緒に寝込んでいる使者の男は呑気なもので、ただただ寝て、目の前に運ばれた飯を食べる生活をやめたくなくていつまでもここにいたそうである。
しかし、顔色も良くなりいくらでも飯を食う男に白い目を向けられ始めた逗留七日目、簀子縁から空を見上げている実津瀬は言った。
「明日は天気が良さそうですね。そろそろ、ここを発ちましょうか」
実津瀬の言葉に使者の男も頷いた。
そして、阿保から都毛まで順調に進み、今、やっと都が見えるところまで戻ってきたのである。
突然帰ってきたら、家族はどんな反応をするだろうか。
やっと帰ってきたと喜んでくれるだろうか。戸惑うだろうか。
実津瀬は帰ってきた喜びと一抹の不安を胸に、はやる心を押さえて一歩一歩都へと近づいていくのだった。
宗清は宮廷から五条に帰ってくると寒空の下、妹の珊が庭で干していた薬草を倉に納めるために西に東にと歩き回っていた。
陽はだいぶ西に傾いているので、早く倉に入れてしまいたいところだった。
「どれ、私も手伝おうか?」
他にも薬草を広げて干している板を倉に入れる者はいるが、宗清は腰軽くこういった手伝いをしてきたので、今こうして申し出たのである。
「兄様、いいのですよ。私たちでやります」
「いや、別に他にやることがあるわけでもない。皆でやった方が早く終わるだろう」
宗清は言って、薬草が載っている板を倉の中に入れるため、珊に倣って両手を広げて板の端を持った時後ろから声がした。
「私も手伝おう」
「いえ、私たちがやりますから、お手伝いは無用ですよ!」
珊はそう言って、声の方を向いた。
「あっ!兄様!兄様!」
珊は大きな声を出した。
「何?なんだ?何か起こったの?」
宗清は珊の大きな声に板を持って振り向いた。
「実津瀬兄様!実津瀬兄様!お帰りになったの!」
珊の声に宗清も薬草を載せた板の前に立つ影をしっかりと見た。
「兄様!兄様!」
珊と同じように宗清も声を上げた。
「いつ、お帰りに?父上は?母上は知っているのですか?」
宗清は尻上がりに大きな声で質問を投げかけた。
「今、ここに着いたから父上にも母上にも会っていない。お前たちに会ったのが初めてだ」
もちろん正門から入る時に門番に会い、門番は実津瀬を見て驚いて邸の者に知らせようとしたが、実津瀬が止めて、一人庭まで入ってきたのだった。
「ああ、兄様!よかった。帰って来られて……芹姉様を…」
「実津瀬兄様、よかった。姉様が」
宗清と珊が一緒に叫ぶ。
「芹?芹がどうかしたのか!何か問題でも?」
実津瀬の顔色は一瞬で変わった。
それまでやっと我が家に帰ってきたとほっと安堵していたが、今は険しい顔に変わり、庭から離れの部屋に向かおうとした。
「実津瀬!」
そこに階の上から声がした。皆が声の方に向くと母の礼が立っていた。
「あなた、帰ってき」
母の言葉を遮って実津瀬は叫んだ。
「母上!芹は?芹に何かあったのですか?」
「え?ええ……」
母の曖昧な濁すような反応に実津瀬はさらに不安を覚えた。
「芹!」
実津瀬は翻って離れに走り出そうとした。
「実津瀬!待って!宗清!」
母の声で、宗清は兄の手首を捕まえた。
「兄様、姉様は無事ですよ」
「どうして皆が芹に何かあったように言うのだ」
「兄様、一旦、部屋に上がって落ち着きましょう。姉様には何も悪いことは起きていませんから」
宗清の言葉に実津瀬は皆が自分を騙したりしていないと思うので、母の前にある階から部屋に入った。

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