Infinity 第三部 Waiting All Night96

小説 Waiting All Night

「おお!ほら、見て見ろよ」
 笠縄が声を上げた。その声に礼も笠縄の体の後ろから顔を出して前を見た。
 そこには視界の先の先までも水面が続く光景が広がっていた。
 これが春日王子が言っていた海のようで海ではない、大きな湖なのだ。
「春日王子!」
 先頭を歩いていた男が後ろを振り向いて春日王子を呼んだ。春日王子は、目の前に広がる大きな水面に目をやり、疲労の出た顔を一旦綻ばせた。
「朔、見てみろ!あれを」
 春日王子は後ろを振り向き、背中にすがっている朔に言った。朔は少しだけ顔を上げて前を見た。
「見えたか?どんなに遠くを見ても見渡す限り水面が続いているだろう」
 春日王子は馬を進めて、湖の近くまで寄って、馬の体を岸に向かって横にして朔に見えやすいようにした。
「ほら!これは海ではない、大きな湖だ」
 春日王子に促されるまま、朔は目の前に広がる水面を見た。 
「まあ、これが湖?海ではないの?」
「そうだよ、湖だ。このほとりを歩いていれば、またこの場所に戻ってくる。大きな湖だ。海は東国にたどり着いたのちに、見せてあげるよ」
 春日王子は優しい表情を見せて、背中に隠れている朔に話し掛ける。朔の表情が見えず、自分が思い描いていたように朔が喜んでくれているか王子はわからなかった。
「よし、今夜休む邸へ向かおう。暑い中疲れただろう」
 春日王子は舎人に邸に向かうように合図した。
 今度は春日王子が先頭に立ち、馬を走らせた。逃亡は当たり前だがただの旅ではない。皆が異常に神経を尖らせて緊張し、疲れている。
 春日王子が引っ張る形で湖沿いを走り、皆が追いかける。礼を後ろに乗せた笠縄も、今日の疲れを癒す場所に着くのがうれしいようだ。
 礼は、春日王子一行が行く方向を教えるために、笠縄の意識が遠くに行った隙に布切れを素早く近くの木の枝に巻き付けた。
 実言はどこまで追ってきてくれているだろう。礼は実言がこの目印を必ず見つけてくれると信じている。
 程なく春日王子一行は湖のほとりに立っている小さな邸についた。邸の周りは葦が生い茂り、邸の姿を覆い隠していて、一見してそこに建物があるとはわからない。
 邸に着いくと、朔は春日王子に手を掴まれて、支えられながら馬の背から下りた。礼はすぐに朔の元に駆け寄って、その体を受け取って抱いた。
「朔を横にしてやってくれ」
 続いて馬から下りた春日王子は手綱を舎人に渡しながら、言った。
「苦しい旅に連れて来てしまった。体をよく休められるよう労わってくれ」
 礼は頷いて、朔の体を支えて邸の中に入った。
 殺風景な部屋。色あせた几帳が部屋の中にあり、その影に朔を連れて行った。畳の上に朔を寝かせて、腰から竹筒を取り朔に水を飲ませた。
「……礼」
「気分はどう?」
「ええ、大丈夫よ。大げさにして欲しくないわ。暑いのに体がついて行かないだけ」
「ええ、でも、今は何事も小さく見るべきじゃないわ。あなたの体は一人じゃないもの」
「それは、お前も同じだろうに。叱られても、素直に聞けないね」
 礼は朔のいいように笑みを漏らして。
「……私は医者だから、信じて」
 暫く礼は朔の背中をさすって、静かにしていた。
 そこへ、従者の男が現れた。
「おい、台所に来て手伝え」
 荷解きが終わって、夕餉の支度にかかるのに人手がいるのだ。礼が頷くと、男は台所へと下がって行った。
 礼はゆっくりと穏やかな声で朔に話しかけた。
「朔、昨日話したこと。子供産むにはこの旅を続けるのは無理よ。だから、今夜、逃げましょう。どうするかは私に考えがあるわ。それまで、しっかりと休んで」
 そう言うと、礼は立ち上がって台所へ向かった。
 台所では火が起こされていて、湯が沸いていた。
持ってきた袋から米と猪の干し肉が出ているので、これが今夜の夕餉にするのだとわかった。
「簡単な罠を張ったら、すぐに魚が掛かったぞ」
 嬉しそうな声を上げて男が一人入ってきた。
 食器も十分にはなく、従者たちの分は大きな葉に飯と焼き魚や猪肉を盛って目の前に無造作に置かれた。何とか、春日王子の前には、膳が置かれ椀や皿に料理を盛りつけた。しかし、都にいることを思ったら、品数も彩もなにもかも見劣りする食事に、逃亡者という現実を突き付けられる。
 酒も、盃や椀など入れ物はまちまちで、回し飲みをしなければ数が足りない。
 礼は朔のために柔らかな粥を作り、焼いた魚の身をほぐしたものを用意した。
 今夜の春日王子は最初から朔を隣に侍らすことはなかった。礼は末席の朔の隣に座って食事を手伝った。例によって朔は粥を二口ほど口に運んだあとは、食べたくないと言って匙を置いた。
「朔、無理をしてでも食べて。この粥の汁を啜るだけでもいいわ」
 礼は言って、朔に粥の入った椀を下に置くことを許さない。
 朔は礼の言うことに応えようと匙に汁を掬って、唇をすぼめて啜るがそれも一杯でもういらないという。
 礼は困った顔をして、朔を見た。
「私のことはいいから。礼もお食べ。しばらくしたら、私ももう少し食べれるかもしれない」
 朔の言葉に、礼は目の前の椀から粥を掬って食べた。礼は食欲があり、黙って椀の中をたいらげる。
 男たちの間で一通り酒が回ったところで、礼は静かな声で朔に言った。
「……朔、今夜のことだけど。これを使うわ」
 礼は小さな小瓶を腹の帯の間から取り出した。朔は礼の手元を見て首を傾げた。
「これは睡眠を誘う薬。酒の入った徳利に入れて、皆に飲ませましょう。皆が眠っている間に、逃げるのよ」
 礼は言うと、目を丸くした。
「そのような薬があるの?」  
 と朔は訊き返し、粥の入った椀に手をやった。
「逃げきるためにも、朔は少しでも食べておかなくてはいけない」
「そうね」
 礼は手元に留めて置いた徳利に小瓶の中の液体を入れた。
「礼もお食べ」
 朔は言って、椀から粥の汁だけを匙に掬って口の中に入れた。
「あれ、朔、全部食べたのね……もう少し食べる?この魚も少しでも食べてみて、ね」
 礼は朔の手から椀を取って、粥をついだ。
 そうしていると、端の男から酒が足りないと呼ばれて、徳利を取りに立ち上がった。取ってきた徳利に甕から酒を注いで持って行った。礼は戻って来て朔の隣に座ると、今度は上座の正面に一人で座っている春日王子が朔を手招きしている。
「王子が呼んでいるわ」
 朔が呟くように言った。
「朔……これを春日王子にお注ぎして……」
 礼は伏し目がちに先ほど催眠の薬を注いだ徳利を朔の前に差し出した。朔はその徳利を持って、春日王子の前まで進んで行った。
「具合はどうだ?少し顔色も良くなったか?」
 春日王子は隣に座って微笑んだ朔に言った。
「ええ、よくなりました。私にとって旅は初めてのこと。都から出たことなどないのです。だから、体が驚いてしまって、心配させてしまいましたわね」
 朔は王子を心配させまいと無理に笑った。
「さ、どうぞ」
 朔は王子の持つ杯に礼から受け取った徳利を傾けた。
「でも、余り召し上がり過ぎるといけませんわ」
「そうだな……。今夜はお前を抱いて休みたい。明朝も早く出発するから、体を休めなくては」
 春日王子は言って、朔の手を握った。朔は春日王子を見つめて、もう一度杯に酒を注いだ。その後、徳利は家来たちに回り、皆が礼の酒を飲んだ。
「あの子が心配しているから、一度戻ります。あの子も私の体を心配してくれているの。かわいい妹なのです。それはほんとう」
 朔は春日王子の元を離れて礼の元に戻った。
「朔……」
 礼は朔の手を取り迎えた。
「しばらく待ちましょう。すぐには効かないの」
 そう言って礼は朔に身を寄せた。
「そうなの?」
 朔は言って、椀に手をやった。ああ、朔はよく食べてくれる。礼は嬉しかった。朔はこの旅から離脱して子供を産むことに専念しようと決めたのだと。
 礼も自分の前の椀に手を伸ばして、匙でさらうように口に掻き入れた。
 春日王子の様子を盗み見して、その時を待っていた礼は、急に目の前が暗くなるような気がして、驚いた。
「……朔……」
 礼は朔を覗き込んだ。
 朔がいる。しかし、その笑みはとても悲しい、困ったような表情だ。 
「朔……なぜ?……」
 礼はとっさに朔の手を握った。
 眠りたくないのに、目が重くて重くて瞑ってしまう。これは、あの薬のせいだ。春日王子たちに振舞ったはずのあの徳利の中身が、なぜか礼の体の中に入っている。
 礼はもう一方の手も朔の膝を彷徨わせ、ぶつかって見つけた朔の手を両手で握った。
 朔、朔、行かないで。私と一緒に束蕗原に行って。そうしなければ、あなたの体もお腹の子も無事とは言えない。私の元から離れないで。私の前からいなくならないで。
 朔! 
「…さ…く…」
 礼は何度も朔の名を呼んだ。しかし、声にならなかった。
 礼は朔の手を握ったまま、その膝の上に倒れた。そのはずみで近くの椀や徳利を倒して、カラカラと大きな音をたてた。その音で、皆が一斉に礼と朔の方を見た。
 朔は自分の膝に倒れた礼を見た。左顔を上に向けて礼は眠りに落ちて行った。
 左目には眼帯。自分の人生を変えた傷。どれだけ、この傷を憎み、羨んだことか。こんな傷を負ってもいい、実言の妻になれるのなら、と何度思ったことか。
 でも、今はそんなことは思わない。
 一人の男に愛されてその愛に応えることを夢見ていた少女ではなくなった。男女の愛の実態に触れて、悦び悲しみ苦しみ愛しみを通して得た結果である。
 そして、朔にとって礼は愛しい妹だった。昔も、そして今も。
 朔は自然と微笑みがこぼれて、礼の頭を二度三度と撫でてゆっくりと膝を抜き、礼の頭を床へと置いた。
「これは、どういうことだ?」
 朔は春日王子の元に歩いて行き、その隣に座った。
「本当は私も王子と二人になりたかったのですわ。いくら妹と言えども。だから、あの子の企みを欺いてやりました。あの子はここに置いていきましょう。王子」
 春日王子は朔をしっかりと抱き寄せた。
「嬉しいことだ。そうだな、あの女は闖入者だ。当初の二人に戻ろう。情けのあるお前はあいつをそのまま返してやりたいのだろう」
「そう思われますの?そう思ってくださるなら、あの子を傷つけず、ここに置いたままにして。後は、この子の運でどうとでもなりましょう」
 春日王子は朔の顔を一通り眺めて頷いた。
「お前の言う通りにしよう。……隣の部屋に行こうか。もう休もう」
 春日王子は皆に明朝の出発のことを話すと、奥の部屋に朔を連れて引っ込んだ。引っ込む前に。
「あの女には手を出すな。手を出したら命は無いと思え」
 と一言釘を刺して行った。
 皆は首をすくめて主人の後ろ姿を見送っている。
 男が一人立ち上がって、部屋の隅に置いてある衾を礼にかけてやった。

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