冬の足音が聞こえて来た。
朝は冷え込み、厚い衾を掛けていても身震いして目覚める。
実津瀬も寒さでいつもより早くに目が覚めた。
夏が始まる前にこの松尾の宮に来たというのに、時はただ無為に経って今は冬になろうとしている。
こんなに長くここにいるとは考えても見なかったことだ。
実津瀬は一刻も早く都に帰って、淳奈にそれに芹に会いたい。二人が思い浮かばない日はないのだ。
桂は新年を迎えるまで斎王の役目につかないという密約に従い、松尾の宮で悠々と暮らしているが、そんなことを知らない者たち誰もが桂が斎王の宮に入る日はいつだろうかと考えている。
実津瀬も桂にいつにするのかをそれとなく聞こうと考え、夏の台風で壊れた屋根を直す手伝いの合間に桂の部屋に向かった。
「桂様に御目通り願いたい」
そう申し出ると。
「桂様はお庭をお散歩中でございます」
と、女官にすげなく言われた。
しかし、実津瀬は桂の散歩の邪魔をしても酷い叱責は受けないという自負があり。
「そうですか。それでは庭に行ってみます」
と言って、一人で桂の部屋の前に広がる庭の中に入っていった。
桂の腹心の侍女や他にもお供を連れているだろうからすぐに見つけられると思っていたが、侍女たちの後ろ姿は見当たらない。
実津瀬は庭にある池の辺りまでくると、その側に建っている四阿の中に桂を見つけた。
桂は一人、椅子に座っていた。
「桂さま!」
四阿まで来た実津瀬が呼びかけると桂は首を少しだけ振り向けて実津瀬を見たがすぐに前を向いた。
「こちらにおられましたか。お供はどうしたのですか。供を連れずにいるのは良くありません」
実津瀬は四阿の手前で片足を跪いて言った。
「……ひとりになりたい時もある」
桂は実津瀬の方を向くことなく言った。
「………そうですね。ならば今、私はお邪魔ですね」
桂の言葉を聞いて実津瀬はそう返事して立ち上がろうとした。
「何、ここまで来て私と何も話さずに行くつもりか。私と話したかったのだろう。ひとりでやりたいことはもう終わった。ちょうど話し相手が欲しかったところだ。実津瀬、こちらに来ておくれ」
桂は袖を振って手招きし、実津瀬はそれに従って膝を進めて四阿の中に入った。
「……そなたが私を探していたのは、どうせ都に帰る話をしたいためだろう」
桂は少し振り向いて白い目で実津瀬を見た。
「はい。もう、冬になります。桂様も斎宮に入らなければなりません。私の役目も終わります。その日付を決めていただきたいのです」
「……日付か……誰もがそういって私を責める」
「桂様を……」
「そうだ。斎宮の長官からも使者が来て言うのだ。もう、斎王は都に帰る日を決めたと」
「斎王が都に向かって発つ日をお決めになったのですか!それはいつですか?」
「今月の終わりには発つそうだ。だから来月早々に来いと言っている」
「そうですか」
「………」
「桂様……」
「………心配するな。斎宮には入る。しかし、入る時期は私に決めさせて欲しい」
桂は呟くように言った。
実津瀬は否定も肯定もせず黙っている。
「最近は座って講義ばかり受けている。楽しいことを我慢していたから、今夜は私の願いをきいてくれないか」
桂は実津瀬に言った。
確かに桂は日中、部屋に籠って斎宮から松尾の宮に通ってくる学者や官吏から斎宮の役目やその生活について話を聞いている。
斎宮に入ったらすぐにその役割を果たせるように桂も準備をしているのだ。
「はい、私にできることであれば」
実津瀬はすぐに返事した。
「舞を見せておくれ。いつものことだが、そなたの舞が見たい」
「かしこまりました」
「素直だな」
「何をおっしゃいますか」
「ふん」
桂は鼻で笑って体を前に戻し、四阿から再び庭を見た。
桂が住んでいた佐保藁の宮の庭には当然劣るが、近くの川から水を引いて池を作って、手入れをした庭は桂の心を慰めてくれるようで、桂はたびたびここで池とその向こうに見える整然と並ぶ樹や色とりどりの花を見に来ている。
実津瀬も膝をついて座ったまま、桂が見ている景色を見つめた。
霜月が終わる頃、松尾の宮はたくさんの人で埋め尽くされた。それは斎宮から斎王を退任した王女が都に戻るためにこの松尾の宮に来たことと、その帰京の道中を護衛するための人が都から松尾の宮に来たからだった。
その時、松尾の宮は前斎王と次期斎王が一つの宮に同居することになった。
前斎王は先代大王の香奈益王と血縁が近いわけではなかった。香奈益王にも娘がいたが、まだ幼くただ一人の子だからと手放さなかった。だから、王族の中から探した十代の王女が選ばれた。その役目が終わってもまだ若い王女は都に帰って結婚をすることもできる。新しい人生が始まることだろう。
この時、斎王二人が顔を会わせることはなかった。女王同士お互いの存在は知っているが交流があるわけではなかったので、会う必要はなかった。
松尾の宮の離れに入った前斎王は一晩泊まって、都に帰る態勢を整えたら翌日の早朝には松尾の宮を発った。
数日、賑やかになった松尾の宮だったが、すぐにいつもの静かな日々に戻った。
主人不在の斎宮からは目と鼻の先程近いところにいる主人にいつ来てくれるのか、と督促の使者が来て、毎日いつ斎宮に入っていただけるのか、と問うている。その問い詰めに桂は耐えて、松尾の宮に居座っているのだ。
使者が面会を求めると、桂は会わないとは言わない。自分の時間に合わせて面会をする。
使者は会ってくれるのだから、いつ、斎宮に入ると言ってくれると思うのだが、桂は相槌を打ちまだ準備が整っていないとのらりくらり言葉を繋いでかわし、決していつ行くとは言わないのだった。
実津瀬が話し相手に呼ばれた時も、使者が面会に来た。実津瀬はすぐに退出しようとしたが桂はまだ話があるからいろといい、実津瀬の前で使者と話し始めた。
使者は桂と侍女以外の人がいることは珍しくないのか、実津瀬がいても驚くことも邪魔にすることもなく、淡々と桂にいつもの話を始めた。
桂は言葉は丁寧だが厳しい使者の声音に対抗して声を荒げることも、不愉快になるでもなく静かに今はまだ入る時ではないと言うのだった。
その気がないのなら会わなければいいのに、必ず会うのは桂も斎宮を軽視しているわけではないと、形だけでも見せるためなのか、それにしてもこの叱責のような言葉を浴び続けるのは胆力のいることだった。
今年中に桂は斎宮に入ってくれるものと、誰もが思っていて、斎宮では桂のいる新年を迎える準備をしている。だから、斎宮の使者も毎回面会で良い返事が得られなくても、もう十日、もう五日もすればいついつには斎宮に入ると言ってくれると思っていた。
しかし、もう新年まで十日を切ったと言うのに、桂は何も言わないので業を煮やした斎宮の長官自らが松尾の宮に来て桂に意見した。
「桂様、貴方様は斎王というお役目を軽視されている。これはどれだけ問題のあることがお分かりか。貴方様は神にお仕えするにはあまりにも相応しくない方です。都に使者を送ってこの由々しき状況を大王にお伝えさせていただきます。大王も貴方様をお許しにはならないでしょう!」
長官は唾を飛ばすほど大声を出したが、桂の表情は何一つ変わらず、これから反撃だと言わんばかりに冷たい目を向けて口を開いた。
「大王に訴えたからと言って、大王が何かしてくれるとでも?代わりの斎王を願っても、代わりが来ると思うか。そのような人物がいたら、私ではなくその者がここに来ているはずだ」
長官は唇を噛んで黙った。
「自分でもわかっている。私が斎王に相応しくないことぐらいわな………しかし、人はいない。この私しか。大王はそれをわかっているから、何がなんでも私に斎王でいてもらわないとならないのだ。王宮から返事があったとしても、私をなだめすかして何がなんでも斎王の役目を全うさせよ、と言うだけだ」
桂は長官を真っ直ぐに見据えて言った。
「年が明けたら早々に斎宮に入る。それまではここで暮らさせておくれ。向こうへ行ったら従順な神の奉仕者になるつもりだから」
桂の言葉に長官も真っ直ぐに見つめていた目を落として頭を下げた。
桂は横を向いて、言った。
「今の言葉を反故にするつもりはないから安心してくれ。部屋から下がってくれ」
長官はもう一度頭を下げて退出した。
その会話の後、実津瀬は桂に呼ばれて長官が座っていた円座の上に座ることになった。
「何かありましたか、桂様」
急な呼び出しに実津瀬は少し驚いて問いかけると、桂は顔を上げて言った。
「そなたが問い続けていたことの答えを授けようと思って呼んだ」
「……はい……」
実津瀬はすぐにはなんのことかわからずただ返事だけした。
「年が明けて十日ごろには斎宮に入る」
そう告げられて、実津瀬はぽかんとした顔で桂を見上げた。
「その日でそなたを都に返してやろう。……どうした?嬉しくないのか?」
桂は何も言わない実津瀬に尋ねた。
「いいえ。斎宮に入る日にちを決められたのですね………長官から何か言われたのですか?」
「何を言おうとも、あの者の思うようにはならない。……しかし、待たせているのはわかっている。これ以上のわがままを言う気はない。その日には必ず斎宮へ入ると言った。安心した顔をしていたさ」
桂は自虐のような冷ややかな笑みをたたえた。
「……斎宮に入られるその日までしっかりとお仕えします」
実津瀬はそう返事した。
「ふ……嬉しい顔は立ち去ってからするのか。口惜しいことだ」
桂は憎まれ口を叩いた。それから実津瀬に愚痴でもこぼすのかと思ったら。
「下がっても良いぞ」
と、実津瀬の退出をあっさりと許した。

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