New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章29

 蓮は帰る道すがら伊緒理の言った覚悟の真意を考えた。
 ここに来て自分の心は静かにならず、石を投げられて波紋が起こったような状態だ。
 邸に戻って部屋の片付けをしていても、手は止まってぼーと外を見てしまう。
 次に七条に行くときはもう五条に今までのように気安く返ってこない。五条の娘ではなく、七条の女主人としての生活が始まるのだから。
 その準備として十日という時間は有り余るほどの長い時間のように思った。
 だから、こうして余計なことを考えてしまうのだ。
 伊緒理が「覚悟」という言葉を言った真意は何か……。
 私は七条の女主人として頼りないのかしら。
それとも、全く違う意味?………伊緒理にこの心の揺れが見えているというの?景之亮様のことが。
 蓮は景之亮と会って話をすると、別れる時に心が痛くなる。
 結婚生活を終わりにしたことに後悔はないが……今、一人になった景之亮と会うと心が揺らぐ。
 やはり、火事の中での再会がいけなかった。舞い散る火の粉の中、景之亮の声を聞いた時、燃え盛る建物を背に手を取って簀子縁の欄干を超えて下へと降ろしてくれた時、どれほど安心できたことか。懐かしい声、大きくて力強い手。三年前に手放したものが支えてくれた。
 語らずともこちらが思うこと相手の求めることがわかって動く感覚。己の体の一部のような感じ。
 景之亮と知り合ってから感じていたことを火事の時も自然と感じて体が動いた。
 あの感覚は景之亮だから感じるのだろう。伊緒理との間にはないものだ。
 景之亮との別れは辛かった。顔を見るのも嫌なほど憎くなったわけではない。大好きは人だった。
 だからこそ会うのは辛いと思っていたし、会いたくなかった。それが宮廷に出仕するようになって、何度か出会い、会話をしたから気持ちが少し昔に戻ってしまったのだ。……いざ、伊緒理の元に行くとなると、手放したものに後ろ髪を引かれているだけかもしれない。
 このまま部屋にこもっていてもしょうがないと思って、蓮は部屋を出て、通りを隔てた診療所に向かった。
 診療所はいつものように都に住む者たちが訪ねてきて怪我や病気の治療を受けていた。
 蓮は女医師の累に言った。
「何か手伝うことはないかしら?」
「では、この子の手当てをお願いできますか?」
 蓮は膝から血を流している少年の前に座って、傷口を洗い流して塗り薬を塗った。
 小さな子ではないので親が付き添ってはいない。  
 ここにくれば怪我の手当てをしてくれて、運が良ければ粥の一杯でももらえるので、怪我をしたら自らふらっとここに来る子供がいる。
 薬を塗った足は細くて、十分な食事を取っていないとわかるので、この子もそういった思いがあるのだろうと蓮は察した。少年を庭に連れて行って診療所の台所から取ってきた白米と粟を混ぜた握り飯を渡した。少年は嬉しそうに顔を輝かせて受け取り、階の一番下に腰掛けて無言で食べ始めた。
 蓮は塗り薬がなくなっていたので補充しておこうと、道を挟んだ母屋に戻って、薬を置いている倉の中に入るとそこに母がいた。
「あら、蓮、どうしたの?」
「お向かいの手伝いをしているの。薬が無くなっていたから取りにきたのよ」
 蓮は答えた。
「そう」
 返事をした母は侍女も連れずに倉に来て棚から何種類かの薬草の箱を下ろしては大きな籠に薬草を入れている。そんな事は自分でしなくてもいいのにと思って蓮は言った。
「お母さまこそ自ら薬草を選ぶなんて。誰かに頼めばいいのに。本家からの依頼?もしかしてお父さまが風邪を引かれたの?」
 蓮の質問に母は答えた。
「いいえ。これは景之亮殿のところに持って行くの」
「景之亮様のところに?また、子供達が風邪でも引いたの?」
 蓮は景之亮の名前を聞いて驚いて言った。
「いいえ、皆元気のようよ。病気にならないように、薬草をお裾分けしておこうと思って。上の子が風邪を引いた時は侍女の丸が来てくれなかったら知る由もなかったわ。景之亮殿は遠慮しているけど、私たちに取っては息子も同然なのだから、もっと頼って欲しいのよ。最近は話してくれるようになったけど」
「お母さま………」
「ん?あら、伊緒理も息子同然よ。景之亮殿のことをそう言って気になったかしら。伊緒理は幼い時から知っている私の息子と呼んでいい人。伊緒理を蔑ろにするつもりはないわ。蓮の夫は大切よ。でも、別れたからといって景之亮殿は全くの他人にはならないの。それはわかってくれるわよね」
 母は言うと棚から薬草の入った箱を下ろそうと両手を上げた。
「私………」
「なあに?そこに立っているなら手伝ってちょうだい」
 少し高いところにある箱を下ろそうとしているので母はそうお願いした。
「私……景之亮様のことがまだ好きなの」
 蓮の言葉に母は手を下ろして蓮に向き直った。
 蓮は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「そう。……どうしてそんなに悲しい顔をするの?あなたは景之亮殿を憎み、嫌いになったわけではないでしょう。まだ思いがあるのは当然と思うわ」
「でも………伊緒理と」
 蓮は顔を両手で覆った。
「伊緒理は……わかってくれているわ。景之亮殿と夫婦だったのだから。伊緒理は景之亮殿と結婚する前の蓮を思ってくれているのかもしれないけれど、その後の、今の蓮のことも知ってなおあなたのことを思ってくれているのよ。だから、あなたに七条に来てほしい、一緒に束蕗原のような場所を作りたいと言ってくれたのでしょう」
 母は蓮の肩に手を置いて言った。
「………はい」
 蓮は手を下ろして顔を上げた。
「伊緒理の元に行けばいいわ。心の中で景之亮殿のことを思っていても、今のあなたは伊緒理のことが好きでしょう。でも、そうではないのならそれは考えなくてはいけないわね。伊緒理に申し訳ないもの」
 母の言う通りだ。伊緒理はその答えを出す覚悟を言ったのかもしれない。
 蓮は涙が出そうになったが、唇を噛んで我慢した。泣いてしまったら、伊緒理ではなくて景之亮の方が好きだと言っているようなものだ。
 火事の後、王宮の近くで伊緒理と一緒にいた蓮と景之亮が出会うことがあった。あの時、伊緒理がいるのに、蓮との個人的なことを話す気配のあった景之亮を制した。あの時から、伊緒理は蓮の気持ちの不安定を察していたのだ。だから、それまで薬寮の館では愛情表現を示すことはなかったのに、あの時は、典薬寮に戻って抱きしめてくれた。
「蓮、お父様も私もあなたの幸せを願っているのよ。あなたが選んだ道があなたの行きたい道だと思うから、自分の心に素直に決めたらいいのよ」
「……はい」
 蓮は小さな声で返事した。
「薬を取りに来たんだったわね。はい、この壺を持って行って」
 後ろの棚に置いてある小さな壺を取って母は蓮の手に持たせた。
「お母さまの手伝いを……」
「いいのよ。誰か呼ぶわ。行きなさい」
 蓮は壺を持って診療所に戻った。階の下で握り飯を食べていた男の子は食べ終えてまだ座っていた。
 蓮は冷ました薬湯を椀に入れて男の子に渡した。一口飲むと、顔をしかめて苦い味を我慢した。
 誰もが、子供は特に苦味に顔をしかめるのはわかっている。
 蓮は予想された反応が面白くて、ふふふ、と笑いを漏らしたが、それが涙声に変わりそうになったので上を向いて声を出さないように我慢した。

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