Infinity 第三部 Waiting All Night16

椿 小説 Waiting All Night

 朔は、哀羅王子が宮廷内の春日王子の館につながる渡殿を渡って、館から遠ざかるのを見届けてから、その渡殿を逆に、春日王子の館に向かった。館の入口には、春日王子に仕える侍女が待っていて、朔の侍女を促して別室へと連れて行った。朔は一人で、長い簀子縁を進むと、その先には別の侍女が待っていて、朔を春日王子の部屋へと連れて行くのであった。
「ああ、ようやく来たか!」
 部屋の真ん中に座っている春日王子は朔の訪れを待ちくたびれたように言った。
「私と入れ違いにどなたかお帰りになっていましたわ」
「……ああ、哀羅だな」
「哀羅?」
「私と同じ王族の一人だよ。大王や私の叔父にあたる方の息子だ。十五年も吉野の山の中にいたのを私が連れてきたのだ。いろいろと宮廷のしきたりを話して聞かせる必要があるから、今日もここに呼んだのだ」
「そうでしたか」
「それよりも、久しぶりではないか。お前はもうここには来てくれぬのではないかと心配になった。こうして、会えて私は嬉しい」
 二人にきりになって、春日王子は朔の手を取って引き寄せると、躊躇なく朔を抱きしめた。来るたびに、まじないのように春日王子は同じことを言う。
 なんと酷い人だろうと、恨むのは簡単だが、朔は春日王子の館に来ることがやめられなかった。
「幹様のお加減はどうだ?」
「最近はだいぶ元気におなりです。私の介護などいらぬほどに」
「でも、お前は、何か理由を作ってここに通ってこなくてはいけないよ。私と会わないなんて言わないでおくれ」
 春日王子はそっと朔の頬に唇を寄せて、囁くように言った。
「ああ、それとも、私の佐保藁の邸に連れて行こうか。あちらの方が広いし、異国から届いた見たこともないものがたくさんある。お前の目を楽しませることができるだろうよ」
 喉の奥でくくっと笑うと、俯いている朔の顎に手をあてがって上に向けた。
「私は、お前を喜ばせたくてたまらないのだ」
「春日王子……」
 朔がその言葉にまた俯くところを、春日王子はあてがった手に力を込めて、そうはさせず、ゆっくりと近づき、唇を重ねた。
「今日も、しばらく一緒に過ごそうではないか。私は待ちかねていたのだから」
 唇を離した春日王子はそう言って、朔の手を取り立ち上がって、奥の部屋へと連れて行った。
「朔」
 春日王子に名を呼ばれて、朔は寝たまま王子を仰ぎ見た。
 春日王子との逢瀬はどれほどの回数を数えるだろうか。
 思い起こせば、椎葉家から大王に嫁いだ幹妃がめでたく懐妊し、出産したが、産後の体の状態が思わしくなく、随分と実家で過ごされた。そこで朔は幹妃にとって良き話し相手になり、幹妃は頼りにした。幹妃も朔も花を愛でるのが好きで、幹妃の体調が回復すると椎葉家の大きな庭をぐるぐると回って花木を眺めながら二人でたわいもない話をしたりした。
 幹妃がようやく後宮に戻る時、朔は付き添いをした。幹妃を迎えた大王は妃が産んだ小さな王女を抱いてたいそう喜んでくださったので、その場の椎葉の家の者は皆、戻って来れてよかったと思ったものだった。しかし、後宮に戻った幹妃は体調が安定せず、たびたび朔を呼んだ。褥に臥せった幹妃のために、朔は幹妃の館に付属する庭に咲く花を手折って見せたりして、少しでも心に喜びを持ってもらおうとした。
 その日も、後宮の庭を奥の方に進んで、今が見ごろと、蕾の花を選りすぐって摘んでいた時だった。
「あや!」
 朔の背後で、声が上がった。わが身に投げかけられた声のように感じたが、その声は男のものである。後宮の中で男の声を聴くのも稀なもので、朔は振り向くのを躊躇した。
「どちらが花かわからぬほど」
 と続いたので恐る恐るその声の方を向くと、そこには壮年に差し掛かったばかりの匂い立つ空気をまとった男が一人立っていた。召しているものから、身分の高い人に見えた。
「ああ、正面から見ると思った通りだな。……ここは、どこの庭だ」
 明け透けな言葉で問いかけた。
「ここは、幹様の館でございます」
「幹?ああ、大王の四番目の妃だな。お前は侍女か?」
 無礼に感じるほどのあからさまな口調を朔は不快に感じたが、その人の醸し出すものがただ者には思えず、恐れながら答えた。
「いいえ。私は実家の椎葉家からお訪ねした者です」
「そうか。……花を摘んでどうするのだ」
「幹様にお見せするのです。伏せていらっしゃることが多いので、せめて美しい花を見ていただこうと思って」
「ほう。では、すぐにそれを持っていって渡してこい。そして、ここへ戻ってきておくれ」
 朔は驚いた顔を隠さず、その人を見上げた。
 すっきりとした細面の顔が朔のすぐ上で目を細めて、笑っている。
「そなたにまた会いたいのだ。ここで別れると二度と会えないかもしれない。それは嫌だから。私はここで、そなたが戻ってきてくれるまで待っているから、早く届けておいで」
 朔は恐怖を覚えて、腕の中に持っている花が震えで揺れ始めるのを抑えるのに必死だ。
「私はここで待っているから」
 館の階に向かって一歩を踏み出した朔に向かって、男は同じことをもう一度言った。
 朔は極めて平静を装いながら、館に向かって歩いた。あの男は誰であろうか。後宮の奥深くに入れる男は決まっている。 軽々しい身分ではないはずである。身分の高い臣下か、王族か……。
 朔は急いで庭を突っ切り幹妃の館の階を上がった。
「ああ、朔」
 褥から起き上がり庇の間に座って、王女を腕に抱いていた幹妃は、朔を迎えた。
「美しい花ね」
 幹妃は朔の持って来た花を見て優しい笑顔を向けた。
 朔は先ほどの男のことが気になりながらも、しばらく幹妃と話をしてから辞去を申し出た。
 あの男と会った場所は、後宮を去るのに必ず通る場所だ。
 あの方の言うことに従うわけではない。
 朔は侍女を連れて、幹妃の館を後にした。あの男に声をかけられた渡殿の交差する場所に来た時、前を向くのが怖かった。
 もし、あの方が待っていたら、自分はどうなってしまうのだろうか。しかし、侍女を一人連れている。先ほどの庭に一人でいた私とは違うのだ。侍女を見れば、あの男も好きに話しかけたりするものであろうか。
 朔は目を伏せて、そろそろと簀子縁を歩いた。そして、かの場所に近づくと、視線はもっと下がった。
「ああ、やっと来てくれたか。待った、待った」
 声が上がって、朔は目を上げた。
 そこには、あの男が時を持て余してぼおっと高欄に腰掛けていたところを、急に立ち上がった姿だった。
「少々待ちくたびれたが、こうして私の願いを聞き入れてくれて嬉しいことだ」
 その男は朔の前に進み出て立ちはだかり、微笑んだ。
 朔は男を上目遣いに見たが、どうすればよいのかわらず視線を落とした。
「ここの庭もよく手入れされて美しいが、もっといいものを見せよう。私についておいで」
 朔は一人ではないのに、男は侍女が目に入っていないように話しかける。朔は慌てて言葉を発した。
「私は一人ではありませんわ。供を連れています」
 先を歩く男は、足を止めると振り向いて不思議そうに朔を見た。
「一緒に連れてくればいい。私はかまわない。そなたが来てくれるのであれば、夫を連れてきてもいいと思っているほどだ」
 傲慢な物言いに朔は躊躇して、足が止まった。後ろに控える侍女も、驚いて慌てて目を伏せるばかりだ。
「恐れることはない。少し話をするだけだから。美しい花を見せてあげるよ」
 朔を見る男の流し目は、艶めかしく妖しげで朔は心を囚われる思いだ。
「いいから、おいで」
 男に促されるままに、朔はその後ろをついて行った。朔の侍女は主人である朔に従うしかなかった。
 後宮のそれぞれの館をつなぐ渡殿を突っ切って、まだ奥に真っすぐ伸びるその廊下を男はゆっくりと淀みない足取りで進むが、朔の歩調に合わせているのが朔もわかった。
 ようやくその長い道のりが終わった。
 長い渡殿の終わりには大きな館があり、その入口には侍女が立っていた。
「部屋に案内しろ」 
 短い指示に、侍女は頷いて朔の後ろに控える侍女に手を差し出して導いた。朔は後ろを振り向き、侍女も不安げに朔の顔を見たが、二人は簀子縁の右と左に分かれて進むしかなかった。

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