New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章28

小説 STAY(STAY DOLD)

 蓮は自分の部屋の整理をしていた。
 棚に置いている箱を下ろして蓋を開けて、七条の邸に持って行くものと五条に置いて行くものを分けている。
 この作業をするのはこれで二度目だ。
 岩城一族だから邸の中に一級品の調度が山のようにあると思われているが、五条は大体質素で調度の数は多くないが、一つ一つはよい品である。
 蓮が使っている立派な机は蓮が筆を持って書き損じの紙に文字を書く練習をやりたがった幼い時に父が贈ってくれた思い入れのあるものである。この机の上で何度も書き損じの紙や薄い板に字を書く練習して、誰もが褒めてくれる手蹟になった。
 蓮はそっと机の上に伏した。
 この机での思い出が次々に心の中に浮かび上がって来る。
 父や母、周りの大人たちから描いた文字が上手だと褒められて良い気分になったこと。去や母……伊緒理を助けたいと思って、陶国から届いた本を一生懸命写したこと。この机と離れられないと一緒に夫になる人の邸に持って行ったこと。
 そこで夫の帰りを待ちながらこの机に向かって写本をした。夫に黙って実家に戻って、二度と夫の元には戻らないと言った時、置いてきたもの全てはもう手元に戻ってくることはないと思っていた。しかし、その全てが蓮の手元に戻ってきた。夫がどれもこれも妻にとっては大切なものだからと五条から一緒に行った従者侍女とともに箱に入れて戻してくれた。だから、この机は今もここにあって使うことができている。
 そして、今度はこの机とともに新しい夫の元に行くのだ。あの人のことを思って一文字一文字を書いていた頃が懐かしく、今度はそばで伊緒理のために本を写そう。
 外が騒がしくて、蓮は机から顔上げて簀子縁に出た。
 庭から宗清の声が聞こえる。
 昼間のこんな時間から宗清が邸にいるのは珍しい気がした。
 青年になった宗清は宮廷への出仕と、実由羅王子のそばに仕えるほかは、本家の従兄弟たちとつるんで女人と知り合い、複数の女人と秘密裡に会っているという。
 蓮と宗清は七つ違いで、蓮は宗清をまだまだ幼い弟と思っていたが、気がつけば宗清は今年十七歳である。もう妻を娶っていてもおかしくない歳だ。女人と恋に落ちることは普通のこと。そして好きよ嫌いよと駆け引きをして振られた、別れたなどは世でよく聞く話である。
 父と兄は妻以外に他の女人に目もくれないが、宗清は世の中の若者に倣って恋愛を謳歌しているようだ。
 蓮は近くの階から庭に下りて、宗清の部屋の前まで行くと、宗清が剣を持って庭に出ていた。
「あれ、姉様」
 すぐに宗清は蓮に気づいた。
「あなたの声が聞こえたので。こんな時間に部屋にいるのは珍しいと思ったのよ」
「そうですか。しかし、心外ですね。私も仕事が終わったら帰って勉強をするんですよ。………それに、今日は先程まで景之亮様と部屋で話をしていました」
 しれっと宗清が言った。
「景之亮様と!」
 蓮は思わず声を上げた。
「追いかけるなら今ですよ、姉様。景之亮様と別れたのはたった今ですから、門の辺りで追いつけるでしょう」
 蓮は思わず門へ通じる方へ顔を向けたが、すぐに宗清に向き直った。
「何を言うの!」
「私と話している場合じゃないですよ!早く追いかけて!」
 とけしかける。
「追いかけるわけないでしょ!追いかける理由がないわ!」
と蓮は言って、その場に踏みとどまった。
「あら、残念」
 宗清は大袈裟に眉を下げて言った。
「景之亮様がどうしてここへいらしたの?」
「父上が呼んだのです。父上との話が終わると、この前、門の前で姉様と会った時に私が話をしたいと言ったけど用があるからと断って帰ったことを覚えていて、わざわざ私のところに来てくれたのです。宮廷で会うことがあっても立ち話でごく短い会話です。だから、久しぶりに腰を落ち着けてお話ができました。そして、お帰りになるのでここまで出て、先ほど別れたのです」
「そうなのね……」
「姉様も景之亮様とお話ししたかったですか?それなら私が呼びに行きましょうか?声も歩幅も私の方が大きいので、景之亮様を呼ぶのも追いつくのも都合がいいでしょう」
 と宗清は言って、声を出そうと広げた右手を口に添えて大きく開けた。
「何をするの!だめよ!景之亮様に特にご用はないの……」
 蓮は宗清の袖を掴んで言った。
「姉様……そんな顔をしないでください。私は姉様を困らせたいわけではないのです。姉様のためになればと思っているのです」
 宗清は姉に向き直った。
「……景之亮様のご迷惑になることはしたくないのよ」
「そうですか?迷惑………景之亮様は今も昔と同じように姉様を思っておられますよ………だから私は」
「やめて!私はもうすぐ伊緒理のところに行くのよ」
 蓮は両手を耳の上に置いた。
「わかっていますよ。しかし、姉様はそれでいいのですか?と問いたいのです。私は景之亮様を推していますから。もう一人の兄と慕っていますし、私の武術の師です。その人がもう一度姉と一緒になってくれるなら、こんな嬉しいことはないですよ」
「私は伊緒理のところに行くの。あなたが景之亮様を慕っているのはわかるけど、それとこれは別よ」
「……そうですね。………私は姉様が決めたことにごちゃごちゃ言う気はないですよ。姉様に幸せになってもらいたいだけです」
「私は幸せよ。仲の良い家族に支えられ、初恋の人の元に行くのだから」
 蓮はそう言ったが、宗清の言葉で胸の内側に痛みが生まれ、傷のようなものをつけたと思った。
 私が伊緒理と幸せになろうとしているのに、それが間違いのようなことを言うから動揺しているだけ。宗清に弓の引き方、剣の使い方、馬の乗り方を教えたのは景之亮様だったから、景之亮様を思う気持ちはわかるけど………。
 宗清は景之亮と話していたら、剣術の練習をしたくなったから剣を持って出たという。部屋に戻る蓮に向かって宗清はもう一度言った。
「姉様、本当にいいのですか?」
 蓮は振り向いて宗清を見たが何も言わずに部屋に戻って途中だった荷物の仕分けの続きをした。
 宗清のおかげで心の中につけられた傷はまだ自分の内側で抑えられると思っていてこれから大きくなるなんて思いもしなかった。
 翌日、蓮は泊まりがけで七条に行った。
 いつものように伊緒理が迎えてくれて、二人で薬草園の手入れをし、部屋で蓮の写した本について話し合った。
 その後は侍女の竹が差配した食材で作った夕餉を食べて、寝所に入った。
 自分から衣服を脱いで、いつものように優しい愛撫を受けて蓮は喜びのため息をつき、伊緒理の背中に腕をまわした。背中が上下して手が滑り落ちないように蓮の指は強く食い込んだ。
 覆い被さっている伊緒理は蓮の顔を撫でて、顔にかかる乱れた髪をかきあげ、部屋の隅を照らす小さな灯りの中で蓮の顔を見つめた。
「………痛い?」
 蓮が訊ねた。
 蓮が背中に回している手が食い込んでいることを伊緒理が気にしているのかと思った。
「いいや」
 伊緒理は答えた。
「私の腕の中にいるのは……私が抱いているのは……蓮だと確認したんだ。確かにあなただと。……これが夢でないと信じるために」
 伊緒理は言って顔を近づけお互いの額と額をくっつけた後、唇を重ねた。
 都の外にある伊緒理が受け継いだ領地、笹苗に作っている邸は大方出来上がった。典薬寮を辞した伊緒理は、今はこの笹苗と七条を行ったり来たりして、去の束蕗原のような場所の建設を目指している。蓮は伊緒理が都に戻ってきた時に合わせて七条を訪れ、二、三日一緒に過ごして五条に帰ることにしている。しかし、そろそろ伊緒理が七条にいない間も蓮はここに住んで、邸の中のことに少しずつ関わって行くという話になり、蓮の家財道具を七条に持ってくることが決まった。
「早くあなたをここに迎えたい。ここがあなたがいる場所だと思えるように。どこにも行かないように」
 伊緒理が言った。
「どこにも行かないわ。伊緒理のそばが私のいる場所よ」
 蓮は答えて、伊緒理の背に回す手に力を込めた。
 伊緒理は何を言っているのだろう……あと、もう少しで私たちは完全に一緒に暮らし始めると言うのに。
 伊緒理の腰がぐっと蓮に押し付けられて、蓮の開いた足は力が入ってゆらゆらと揺れた。
 体を離した後、伊緒理の腕枕で余韻に浸っている時に昨日の宗清との会話が思い出された。
 宗清は前夫を好きで尊敬しているのはわかっているけど、それと私のことは別。私は私よ。
 そう思う一方、蓮はわかっている……自分の心の中には二人の男がいることを。
 伊緒理だけと思うから、そうじゃない、と心の中がざわつくのだ。昨日、宗清につけられた傷が疼くのだ。
 どちらが上だ下だ、どちらが強い弱いなんてことはない。どちらも同じに愛している。
 伊緒理が私の顔を見つめて、腕の中にいるのは私かどうかを確かめたと言ったけど、本当は顔を見たのではなく、目の奥の私の心の中を見ようとしたのだ。伊緒理には今の私は私の皮を被った別人のように感じているのかもしれない。
 こんな気持ちを抱えたまま、伊緒理と一緒にいていいのだろうか。
 私はあのまま束蕗原の去の元で他の弟子たちと一緒に勉強して、束蕗原の人々の助けをしていたらよかったのかもしれない。
 しかし、束蕗原にいる自分と伊緒理のそばにいる自分を思い浮かべると、やはり伊緒理のそばにいたい。
 当たり前よ。
 では、伊緒理のそばと……景之亮様のそばとでは……?
 ……答えなんてない。答えなんてない。
 蓮は心の中で叫び、涙をこぼした。
 決して自分を憐れんでいるからではない。どこまでも自分の勝手さに呆れるも、一人で生きるとは決められない情けない自分に失望しているのだ。
「………蓮……」
 伊緒理が呼んだ。
「顔を上げて」
 伊緒理の胸に顔を伏せていた蓮は言われるままに顔を上げた。
「あなたの幸せが私の幸せだ」
伊緒理が言う。
 なにを言うの。伊緒理には夢があるでしょ。それが叶うことが幸せの一つでしょう。
 蓮は心の中で言葉を返した。
 二日ほど七条の邸で過ごして五条に帰る日。
「蓮、次に会うのは十日後になる。その時はあなたの身の回りの物はここに運び込まれて、私たちの新しい生活が始まる。楽しみだ」
 伊緒理は蓮の手を握って言った。
 昨日話をして、次に蓮が七条に来る時は五条から完全に七条に移り住むことにした。先日、蓮が吟味した自分の持ち物たちが運び込むことが決まっている。
「そうね」
 蓮はそう返事した。
「これで私たちはずっと一緒だ」
「ええ」
 蓮は伊緒理の言葉に頷いて、その懐に飛び込んだ。伊緒理は蓮を抱きしめて言った。
「蓮……私は一度、あなたを手放した男だ。その時の失敗を肝に銘じて、次はあなたを絶対に離さないよ。あなたも次にここに来た時にはもう私から逃れられない。覚悟してきておくれ」
 蓮は伊緒理の胸から顔を上げた。
「伊緒理?」
 これまで言葉で行動で伊緒理との愛を積み上げてきた。あとは、一緒に住み、笹苗での活動を始めるだけだ。
 なのに、なぜ覚悟などという重々しい言葉を言うのだろうか。
 今までの自分の言葉や行動に伊緒理と一緒になる覚悟が感じられないことがあっただろうか。
 ………それとも、今、揺れている心の中を見透かされているのだろうか。
 蓮は様々なことに思い巡らせた。
「十日後に会おう。あなたが来てくれることを楽しみにしている」
 今日の別れを告げる伊緒理の言葉に、胸に置いた蓮の手は襟を握って離せないでいた。
 仕方ないので伊緒理が蓮の手を取り、襟から剥がしてその手の甲の上に手を重ねた。
「蓮、またね」
 伊緒理は蓮の手を引いて階の下に控える侍女の曜と従者の鋳流巳に渡した。

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