「伊緒理……」
「鷹取殿も変わらず蓮を愛している。……私も蓮を愛している。陶国から帰ってまたあなたと巡り会って今度こそ愛し合えたことはこの上ない喜びだ。一度は手放したあなたの手を掴無ことができた。……だからあなたを再び手放すことができる。あなたが幸せになる道に向かわせるために」
伊緒理は蓮の右肩に顔を埋めて抱きしめる腕に力を込めた。
「蓮、試すような真似をして申し訳ない。あなたの愛を疑ったことはないが、やはり今日あなたがここに来てくれたことはあなたが私を愛してくれていることの証だ。それを知れて私はそれだけで満足だ」
伊緒理はもう一度蓮の体を抱きしめた。
「鷹取殿のところに行くんだ。鷹取殿は迷うことなくあなたを受け入れてくれる」
溜まった涙が耐えきれず蓮の頬を流れた。
「……伊緒理……」
伊緒理は顔を上げて蓮の体を離した。蓮の顔を見て、指で涙を拭いた。
「誰か!曜を呼んでくれ!」
伊緒理が言うと、すぐに竹が曜を連れて現れた。
「曜、蓮を五条に連れて帰っておくれ」
「は…い?」
曜は混乱し返事は間の抜けたものになった。今日からここで生活すると言うのに、すぐに元来た道を帰れという伊緒理の言葉はすぐに理解できるものではない。隣に立つ竹も目を見開いている。
「私の都合で蓮は五条に帰ることになった。実言様と礼様には改めてお詫びと説明に伺うつもりだ。そのことを申し上げておくれ」
伊緒理は曜に向かって言った。
「伊緒理………」
蓮は自分の気持ちを無視する伊緒理に抵抗するように伊緒理の袖を掴んだ。
「言っただろう。私はあなたを幸せにすると」
伊緒理は蓮を見据えて言った。
「私は幸せよ」
蓮は間髪入れずに返事した。
「ああ、しかし、私といることが一番の幸せとは限らない」
伊緒理も迷いなく返事した。
「私……」
蓮の言葉を遮って伊緒理は一方的に言った。
「蓮、あなたの幸せを願っている」
伊緒理は袖を握る蓮の手を取ると曜に蓮の腕を握らせて、曜の背中を押した。曜は訳がわからないがここの主人が帰れと言っているのだから、従うしかない。
「蓮様……私たち……」
蓮は自分で頬を拭うと、それ以上の涙をこらえた。
「帰りましょう……」
蓮は自らの意志で歩き始めた。
「これはどう言う……」
曜の言葉に蓮は答えた。
「ここには居られないの」
「それは……」
「私は振られたの……」
「そんなこと……」
曜は二人の仲睦まじい様子を一番近くで見ていたからこそ信じられなかった。
従者の鋳流巳も呼ばれて三人は五条に向かった。腰を落ち着かせる暇もなく、今来た道を帰るとは何が起こったのだろうかと、鋳流巳も戸惑っているが蓮の打ちひしがれた姿を見ると何も尋ねることはできなかった。
伊緒理は私の心の中をわかっていたのだ。全てを見透かされていたのだ。
蓮はそう分かって、自分の振る舞いを恥じた。どのような出来事で蓮の心を知ったのかわからないが、それを見せていた自分が情けない。
そして、蓮の心を知った伊緒理の結論は蓮を景之亮に譲ると言うことだった。
その決断をさせることは伊緒理を苦しめたことだろう。
私は今からどうしたらいいのだろうか。
蓮は曜に支えられて七条の正門を出て考えた。
五条に帰れば皆が驚くだろう。一日も保たずに出戻ってくるなんて誰も考えてもみなかったことだろうし。それに景之亮だ……。
伊緒理があっちへ行けと言うから行くと言うのか。そんな理由では景之亮にも申し訳ない。
蓮たちは五条に戻るとそっと裏門から入った。
何人かの使用人とすれ違ったが、身近に仕えている者たちではないから、蓮がいることを誰も不思議に思わなかった。
蓮は自分の部屋に入ると曜に言った。
「曜、紙と筆を持ってきてちょうだい」
曜は自分の主人の言葉に頷いて部屋を出ていくと、手に紙と筆、墨壺を持って戻ってきた。
五条に戻ってくるなんて思っていなかったから、蓮の部屋には何もない。蓮は床に紙を置いて文字を書いて、墨が乾くのを待った。
「曜、これを鷹取様のお邸に持って行ってちょうだい。景之亮様がいればそのまま渡して。いなければ渡すように言伝をお願いして」
「はい」
曜は自分の仕える主人の言葉に頷いて、部屋を出て行った。
蓮は曜を見送ると部屋を出て、使用人たちが使う裏庭の垣の扉を開けて邸の外に出た。
都の北にある小さな丘に向かって歩いた。前に実津瀬と一緒に登ったことがあって知っているのだ。その丘の上から都が一望できる。
蓮は一気に頂上まで登ると、都を見下ろした。
この先どんな結末になるかわからないが、ここで待てるだけ待とう。
蓮は膝を抱えてうずくまった。
なんと勝手な人間だろうか。
伊緒理にこんな結末を選ばせて、その日に景之亮の腕にすがろうとするなんて最低なことである。
それでも景之亮に会いたい。
伊緒理が言うように蓮の心には二人の男がいる。この男がだめなら次の男に行くというずるい女だ。
こんな時に実津瀬がいてくれたらよかったのに。
こんな身勝手な私を叱ってくれるのは実津瀬だろう。
しかし、実津瀬に叱られても、こんな自分を知った父に罵倒されても、陰で侍女や従者に白い目で見られても、やはり曜に保たせた景之亮への手紙を書いただろう。
その手紙は景之亮の手に渡っただろうか。渡ったとしても景之亮がそれを読むかわからない。読んだとしても他の男と一緒になると言っていたのに手紙をよこすなんて卑劣な女に愛想を尽かされたかもしれない。
それでも、伊緒理が選べと言ってくれた道を進んでみよう。結局うまくいかなくてもそれでいい。
情けない自分を心の中は空っぽになって。やっとひとりになれる。それもひとつの覚悟だ。
蓮は泣き腫らした目を擦って、上を見上げた。
西の空が青い幕を引っ張って畳み、夕日色の幕を広げている。そして、少しずつ群青が硯にすった墨のように広がり、そこにまたたき始めた星が見えた。
随分と時が経った。
誰にも何も言わずにここまで来た。
なぜか七条にいるはずの曜と鋳流巳が五条にいて、一緒に帰ってきた当の蓮は忽然と姿を消している。
曜も鋳流巳も説明に困っているだろう。五条に帰らなければ。
景之亮………
景之亮が来てくれるなんて考えは甘いのだ。自分はどこまで利己的な人間だろうか。
帰ろう。
そして、今朝、別れの挨拶をした父母や弟妹に謝ろう。
一日もその人の妻にはなれなれずに戻って来て、またここで暮らさせてほしいと。
それが自分だ。情けない姿を見せるのは恥ずかしいことだが、取り繕ってもいられない。
蓮は立ちあがろうと右手を突いた、その時。
はあはあと息を切らせて丘を駆け上がる男がいた。
頂上に辿り着くと大きな声で呼んだ。
「蓮〜!」
と。
蓮は顔を上げて後ろを振り向いた。
丘の頂上に出る道の上に、大きな男が立っていた。
「蓮!」
景之亮は左右を見回している。
蓮が振り向いたその動きで、景之亮は蓮の座っている方へ顔を向けた。蓮を見咎めると蓮の元に駆け寄った。
「蓮……」
蓮の横に膝を突き、その手を取った。
「……か、かげの…すけさま……」
「蓮、何も言わなくていい。何も言わなくていいんだ。ただ頷いてくれたらいい」
景之亮は言った。
「蓮、もう一度私の妻になってくれ。もう一度私と一緒に暮らそう」
New Romantics 第ニ部STAY(STAY GOLD) 第九章31
小説 STAY(STAY DOLD)

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